EXHIBITIONS
浜口陽三、ブルーノ・マトン展 ― ひとつ先の扉
浜口陽三(1909~2000)は、フランスで新しい銅版画技術を開拓した、20世紀後半を代表する銅版画家のひとり。その作品には柔らかな空間が広がり、永遠の時間が流れているかのように感じる。本展「浜口陽三、ブルーノ・マトン展 ― ひとつ先の扉」では、浜口の作品とともに、日本の芸術・文化に親しんだフランスの画家、ブルーノ・マトン(1938~2020)の銅版画を紹介する。
北フランスに生まれたブルーノは、パリの映画学校を卒業後、短編映画を手がけていたが、より直接的に表現を追い求める決意をして銅版画を学んだ。その後、版画や油彩画、アクリル画などを発表しながら、美術評論を続け、短編小説も出版。1990年代以降は日本を度々訪れ、「手に思考が宿る」日本の工芸に、西洋の芸術にはない可能性を見出した。
ブルーノは、銅版画のプロセス自体が芸術であるととらえ、知的な表現を試みていた。例えば「隠された音叉」シリーズでは、作家の問いかけやまなざしが、作品に柔らかに刷り込まれている。物静かで饒舌、繊細でユーモアのある作家の内面もひとつの要素となり、その銅版画は鑑賞者との対話を生む。シンプルに見える線のシリーズは、イメージを超える新しい次元を求めて画家が思索していた時期の作品で、見る人の想像をくすぐり、心を象る。
浜口は、新しい技法を見つけることで銅版画に新しい命を吹き込み、いっぽうブルーノは、銅の板を彫り、インクを詰めて紙に転写する銅版画のプロセスそれ自体が芸術であると考えていた。フランスで銅版画を発展させた浜口と、日本の文化・芸術に親しんだブルーノの作品は、それぞれベクトルが違うものの、静かな引き潮のように、私たちのなかにある感覚を遠くへと導き、星の光のように、その先の世界を照らす。
本展は、浜口作品約20点、ブルーノ作品約50点で構成。また詩人の大岡亜紀と谷川俊太郎が、ブルーノの作品を見て浮かんだ言葉を本展へ寄せ、銅版画と同じ空間に詩人2人が紡いだ言葉の断片が散りばめられた空間がある。
銅版画には、油彩画や水墨画とは異なる表現の深さがある。自身のイメージと合せて心と遊ぶ、参加型の展覧会。
北フランスに生まれたブルーノは、パリの映画学校を卒業後、短編映画を手がけていたが、より直接的に表現を追い求める決意をして銅版画を学んだ。その後、版画や油彩画、アクリル画などを発表しながら、美術評論を続け、短編小説も出版。1990年代以降は日本を度々訪れ、「手に思考が宿る」日本の工芸に、西洋の芸術にはない可能性を見出した。
ブルーノは、銅版画のプロセス自体が芸術であるととらえ、知的な表現を試みていた。例えば「隠された音叉」シリーズでは、作家の問いかけやまなざしが、作品に柔らかに刷り込まれている。物静かで饒舌、繊細でユーモアのある作家の内面もひとつの要素となり、その銅版画は鑑賞者との対話を生む。シンプルに見える線のシリーズは、イメージを超える新しい次元を求めて画家が思索していた時期の作品で、見る人の想像をくすぐり、心を象る。
浜口は、新しい技法を見つけることで銅版画に新しい命を吹き込み、いっぽうブルーノは、銅の板を彫り、インクを詰めて紙に転写する銅版画のプロセスそれ自体が芸術であると考えていた。フランスで銅版画を発展させた浜口と、日本の文化・芸術に親しんだブルーノの作品は、それぞれベクトルが違うものの、静かな引き潮のように、私たちのなかにある感覚を遠くへと導き、星の光のように、その先の世界を照らす。
本展は、浜口作品約20点、ブルーノ作品約50点で構成。また詩人の大岡亜紀と谷川俊太郎が、ブルーノの作品を見て浮かんだ言葉を本展へ寄せ、銅版画と同じ空間に詩人2人が紡いだ言葉の断片が散りばめられた空間がある。
銅版画には、油彩画や水墨画とは異なる表現の深さがある。自身のイメージと合せて心と遊ぶ、参加型の展覧会。