EXHIBITIONS
ヴィヴィアン・スプリングフォード
抽象表現を追求したアーティスト、ヴィヴィアン・スプリングフォード(1913〜2003)のアジア初個展がタカ・イシイギャラリーで開催されている。
1913年にミルウォーキーの裕福な家庭に生まれたスプリングフォードは、一家でデトロイトへ移住し、その後、ニューヨークへ移り住んだ。マンハッタンの名門私立校スペンススクールで学んだのち、32年に社交界に加わるも同じ境遇の女性たちとは一線を画し、美術の道へ進むことを志してアート・スチューデンツ・リーグ(*)に入学した。30~40年代には同学校で学ぶ傍ら、商業イラストレーターとして活動し、19〜20世紀初頭の独裁者たちを分析した『Juggernaut: The Path Towards Dictatorship』(アルバート・カー著、1938 )の挿絵の担当や、肖像画などの委託制作も引き受けた。
50年代のニューヨークのアートシーンは、男性絶対優位の構造に揺らぎがなかった。大恐慌後、公共事業促進局(WPA)による連邦美術計画に参加し、男性アーティストと肩を並べて働くことでようやく女性アーティストたちは受け入れられた。しかしこの計画に参加することもなく、有名なアーティストの夫も裕福な配偶者も持たないスプリングフォードは、女性アーティストとして成功とは程遠い環境に身を置いていた。だが当時の重要な美術批評家であるハロルド・ローゼンバーグの評価を得たほか、その作品はレオン・ムニューシン、ポール・ジェニングス夫妻、マイケル・クロス夫妻など著名アートコレクターのコレクションに収められた。
同じ頃、ドリッピングなどアクション・ペインティングの技法も取り入れ、抽象絵画の制作を開始。58〜60年代初頭には、中国系アメリカ人アーティストのウォレス・ティンとスタジオを共有し、ティンに紹介された書道、東洋思想や美術が作家のキャリアに大きな変化をもたらした。自らの制作に書道の技術を応用すると、変更や修正などを施さず一度の描写で作品を完成させる「ワンショットペインティング」を通じ、自己の抽象表現を発展させていった。
スプリングフォードの独自の抽象表現への追求は以降もとどまらず、60年代後半からは、ステイン(染み)・ペインティングの技法を用いて制作。その技法はのちに進化していき、80年代半ばに病で視力を失うまで絵画や抽象作品を手がけ続けた。また70年代にニューヨークで生まれた「Women in the Arts」や 「Women’s Caucus for Art」といった女性アーティストの主体性の向上を目指した活動団体にも参加。作家兼キュレーターのジューン・ブラムが企画し、女性解放運動の文脈で重要とされる展覧会「Works on Paper / Women Artists」(ブルックリン美術館、1975)などでも作品を発表した。
スプリングフォードが他界する5年前の1998年、ニューヨークのギャラリスト、ゲイリー・シュナイダーによって再発見され、2000年以降もアメリカのギャラリーを中心に展覧会が開催されている。
本展では、50〜70年代のあいだに制作された代表作11点を展示。性別や世代、そして型破りなアプローチのために困難な道を歩んだスプリングフォードの、抽象表現と色彩への飽くなき追求の軌跡をアジアで初めて紹介する。
*──1875年にナショナル・アカデミー・オブ・デザインの保守的な学科課程に不満を抱いた学生たちよって、教育的柔軟性と多様性を求めて設立された美術学校。戦後、抽象表現主義派やポップ・アーティストとして活動する作家が多数在籍した。
※本展は東京都の要請に従い、6月20日までの土曜日は予約制。詳細・最新情報は公式ウェブサイトへ。
1913年にミルウォーキーの裕福な家庭に生まれたスプリングフォードは、一家でデトロイトへ移住し、その後、ニューヨークへ移り住んだ。マンハッタンの名門私立校スペンススクールで学んだのち、32年に社交界に加わるも同じ境遇の女性たちとは一線を画し、美術の道へ進むことを志してアート・スチューデンツ・リーグ(*)に入学した。30~40年代には同学校で学ぶ傍ら、商業イラストレーターとして活動し、19〜20世紀初頭の独裁者たちを分析した『Juggernaut: The Path Towards Dictatorship』(アルバート・カー著、1938 )の挿絵の担当や、肖像画などの委託制作も引き受けた。
50年代のニューヨークのアートシーンは、男性絶対優位の構造に揺らぎがなかった。大恐慌後、公共事業促進局(WPA)による連邦美術計画に参加し、男性アーティストと肩を並べて働くことでようやく女性アーティストたちは受け入れられた。しかしこの計画に参加することもなく、有名なアーティストの夫も裕福な配偶者も持たないスプリングフォードは、女性アーティストとして成功とは程遠い環境に身を置いていた。だが当時の重要な美術批評家であるハロルド・ローゼンバーグの評価を得たほか、その作品はレオン・ムニューシン、ポール・ジェニングス夫妻、マイケル・クロス夫妻など著名アートコレクターのコレクションに収められた。
同じ頃、ドリッピングなどアクション・ペインティングの技法も取り入れ、抽象絵画の制作を開始。58〜60年代初頭には、中国系アメリカ人アーティストのウォレス・ティンとスタジオを共有し、ティンに紹介された書道、東洋思想や美術が作家のキャリアに大きな変化をもたらした。自らの制作に書道の技術を応用すると、変更や修正などを施さず一度の描写で作品を完成させる「ワンショットペインティング」を通じ、自己の抽象表現を発展させていった。
スプリングフォードの独自の抽象表現への追求は以降もとどまらず、60年代後半からは、ステイン(染み)・ペインティングの技法を用いて制作。その技法はのちに進化していき、80年代半ばに病で視力を失うまで絵画や抽象作品を手がけ続けた。また70年代にニューヨークで生まれた「Women in the Arts」や 「Women’s Caucus for Art」といった女性アーティストの主体性の向上を目指した活動団体にも参加。作家兼キュレーターのジューン・ブラムが企画し、女性解放運動の文脈で重要とされる展覧会「Works on Paper / Women Artists」(ブルックリン美術館、1975)などでも作品を発表した。
スプリングフォードが他界する5年前の1998年、ニューヨークのギャラリスト、ゲイリー・シュナイダーによって再発見され、2000年以降もアメリカのギャラリーを中心に展覧会が開催されている。
本展では、50〜70年代のあいだに制作された代表作11点を展示。性別や世代、そして型破りなアプローチのために困難な道を歩んだスプリングフォードの、抽象表現と色彩への飽くなき追求の軌跡をアジアで初めて紹介する。
*──1875年にナショナル・アカデミー・オブ・デザインの保守的な学科課程に不満を抱いた学生たちよって、教育的柔軟性と多様性を求めて設立された美術学校。戦後、抽象表現主義派やポップ・アーティストとして活動する作家が多数在籍した。
※本展は東京都の要請に従い、6月20日までの土曜日は予約制。詳細・最新情報は公式ウェブサイトへ。