EXHIBITIONS

没後50年 河井寬次郎展

―過去が咲いてゐる今、未来の蕾で一杯な今―

河井寬次郎 三色打薬双頭扁壺 1961頃 個人蔵 撮影=白石和弘

河井寬次郎 練上鉢 1956頃 河井寬次郎記念館蔵 撮影=白石和弘

河井寬次郎 青瓷鱔血文桃注 1922頃 河井寬次郎記念館蔵 撮影=白石和弘

河井寬次郎 二彩双龍耳壺 1923頃 山口大学蔵 撮影=東郷憲志(大伸社ディライト)

河井寬次郎 『いのちの窓』より(詞句・複製) 1948頃 河井寬次郎記念館蔵 撮影=東郷憲志(大伸社ディライト)

デザイン、制作・金田勝造 キセル 1950頃- 河井寬次郎記念館蔵 撮影=白石和弘

 近代陶芸や民藝運動で知られる河井寬次郎の没後50年を記念した大回顧展が開催される。

 1890年、島根県に生まれた河井寬次郎は、1910年に松江中学を卒業後、東京高等工業学校(現・東京工業大学)窯業科に入学。同校で後輩の濱田庄司と出会い、生涯の友人となる。卒業後は京都市立陶磁器試験場で技手として研鑽を積み、20年に京都市五条坂の清水六兵衞の窯を譲り受け、工房と住居を構えた。

 「天才は彗星のごとく現る」と絶賛を浴びた初個展以来、中国や朝鮮古陶磁の手法に基づく高度な技術を駆使した作品が好評を博すも、しだいに自らの作陶のあり方に疑問を抱いた河井は、濱田庄司を介して思想家の柳宗悦と親交を結ぶとそれまでの作風を一変させ、実用を重んじた力強い作品を手がけるようになる。

 その後、柳や濱田と民藝運動を推進し、36年に「日本民藝館」が開館されると理事に就任。戦後は、色鮮やかな釉薬を用いた重厚で変化に富んだ独自の作風を確立する一方、実用にとらわれない、自らの内面から湧き出る自由で独創的な造形表現を展開した。

 本展では、芸術作品としてではなく「商品学」の研究資料として大正10と12年の2度にわたって山口大学が収集し、2014年に発見された初期作を本邦初公開。またパナソニックの創業者・松下幸之助が求めた陶芸作品のほか、木彫や書を含む約130点で、寬次郎の仕事の全貌と精神世界に迫る。