物憂げで朴訥な声が語り始める。
中国に宋という王朝が
あったとき、
まだ海の大きさは
今ほど想像しやすいものでは
ありませんでした。
(青柳菜摘《望船》より)
この語り方、ゴールを設定しているようには思えない。どこか不気味で即物的だ。青柳菜摘の作品を知る人にとっては、いつもの語りが始まったという印象を持つだろう。結論に向かってとめどなく奔流のように語られるわけでもなく、意志があるのかないのかわからず、当意即妙でもない。人工音声のようだ。不案内な感じは、行為遂行的(パフォーマティヴ)で、〝いま〟を積層し、独特な時間を構成する。
「人工音声のようだ」とは、人間の思考を模倣する機械を、一巡した人間がメタに模倣する語りのたとえだが、振り返れば青柳作品に見られる特徴には、ポストヒューマン的な環境を自明とする志向があったことに気づかされる。《望船》の後半では、メアリーと怪物、つまり人造人間の物語である『フランケンシュタイン』(1818)と作者メアリー・シェリーが暗示される。これは青柳が、2019年にNTT・インターコミュニケーションセンター[ICC]で発表した《彼女の権利──フランケンシュタインによるトルコ人、あるいは現代のプロメテウス》の本歌取りだろう。
青柳の作品世界を媒介にすると、私たちはすでに人間であることを一段「降りて」いたのではないか、と意識が開かれる。機械をつくる理性よりも模倣する野性へ、自然を征服する欲動よりも、馴致(じゅんち)する中動へと......。
船は港でうまれました。
媽祖と呼ばれるのはそれから
だいぶたってからでした。
(中略)
船というなまえもいまここで
話すために名づけただけで
ほんとうの名は
だれにもわかりませんでした。
それでも船は
ひとりの人でした。
(青柳菜摘《望船》より)
「船」を擬人化するのではなく、「人」だという。ならば「人」は「船」でもある。さらには「媽祖(まそ)」(神)でもある。別に展示される《灯船》では「彼女の名前は船といいます」と書く。そう、『サザエさん』を思い出せばよい。フネ(人工物)と波平(自然現象)の子供は、サザエ、カツオ、ワカメ(生物)である。別に『サザエさん』をポストヒューマンだと言いたいのではなく、普通名詞と固有名詞の記号操作が、物語や思想性を起動する契機となることを指摘したい。汎神論でもなく無神論でもなく、新しい唯物論としての語りが始まる。
青柳は、本作の制作期間中、ガードルード・スタイン『地球はまあるい』(書肆山田、1987、ぱくきょんみ訳)を読んでいたという。それは「ローズ」という花の名前の女の子の物語。それは女の子の名前の花の物語にも読める。普通名詞と固有名詞が対等になる「とりかへばや物語」だ。
さまざまな文学的比喩を入り口に、展覧会「亡船記」は始まる。この現象を新しい「唯ブツ論⇄もの語り」世界と言ってみたい。