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セザンヌの名作はここにある。国内美術館で見られる代表作をピックアップ

国内の美術館には世界に誇る西洋絵画の巨匠の名作が多く収蔵されている。そんな名作の数々を画家のエピソードとともに紹介。訪問の参考にしてもらいたい。今回はポスト印象派の画家であり、20世紀美術に多大な影響を与えたポール・セザンヌを取り上げよう。なお、紹介されている作品がつねに見られるわけではないことは留意されたい。

文=坂本裕子

ポール・セザンヌ サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール 1904-06頃 石橋財団アーティゾン美術館

 「自然を円筒、球、円錐(えんすい)によって扱い、すべてを遠近法のなかに入れなさい」。これはポール・セザンヌ(1839~1906)が、29歳年下の画家エミール・ベルナール(1868~1941)宛ての書簡にしたためた有名な言葉だ。

 この理念とセザンヌの作品が、パブロ・ピカソ(1881~1973)やジョルジュ・ブラック(1882~1963)らが進めたキュビスムの理論的支柱となり、アンリ・マティス(1869~1954)やアンドレ・ドラン(1880~1954)らは、セザンヌの色彩による画面の構築に触発されてフォーヴィスムへと進む。

 20世紀における絵画表現の二大改革はセザンヌの存在なしにはありえなかった。故に彼は「近代絵画の父」とも称される、ポスト印象主義の代表的な画家のひとりだ。

 南仏エクス=アン=プロヴァンス(以下、エクス)の裕福な家に生まれ、父の反対を押し切って画家になることを選んだセザンヌは、パリで印象派の画家たちと交流しながらも一定の距離を置き、故郷での制作を主体に独自の表現を追求した。サロンには一度も入選せず(*)、晩年の個展開催までパリ画壇には知られることがなかったこの画家は、多くの誹謗と中傷を受けながらも、人物、静物、風景と幅広い画題を扱い、一貫して己の目指すものを揺らぐことはなかった。

 同じくポスト印象派の画家として挙げられるフィンセント・ファン・ゴッホ(1853~90)やポール・ゴーガン(1848~1903)の劇的な生涯や作品に感じられる情熱やインパクトに比べて、大きな波乱のない人生や、現代から見ると穏やかで静かにも思われる作品の何に、どこに、次世代の作家たちを魅了し革新へと導くものがあったのか、彼の生涯と国内で見られる作品に迫ってみよう。

モラトリアム青年の夢:画業の道へ

 セザンヌは1839年、エクスでのちに銀行家となる父の子として生まれた。セザンヌの父は帽子の行商人から一代で銀行家として成功した実業家で、母は椅子職人の娘。妹のマリーが生まれたのを機に両親は入籍し、その後、妹ローズが生まれる。

 何不自由ない裕福な家庭で後継ぎとして育った彼は、ラテン語やギリシャ語もこなす優秀な少年で、良家の子息が通う名門校に進学する。そこで知り合ったのが、後にフランス近代文学の大家となるエミール・ゾラ(1840~1902)だ。ゾラはパリで父を失い、貧しい母子家庭であったことから、エクスではよそ者としていじめにあっていたが、同じ寄宿舎にいたセザンヌは暗黙の了解であったルールを破ってゾラに話しかけ、級友から袋叩きにあったという。翌日ゾラがリンゴを持って見舞いに来たというエピソードも残る。そこに、のちに天文学者となるジャン=バティスタン・バイユが加わり、真っすぐで内気なセザンヌは、青年時代を詩作や絵画制作、自然散策や水泳などをして過ごした。1歳年下の二人との友情は長く続き、ことにゾラは、1858年にパリに移ってからも頻繁に手紙をやりとりし、画家を夢見るようになったセザンヌに多くの激励を送っている。

 父の希望で1858年にはエクスの法科大学に進むが、前年から市立素描学校にも通い始めていたセザンヌは画家になることを諦めきれず、勉強に身が入らなくなっていく。彼の芸術的な才を評価していたゾラからは、度々パリで絵の勉強をするべきと勧められるが、決心がつかない。そこには、画家として成功するという理想とともに、失敗したらという恐れ、さらに父の期待を裏切ることへの罪悪感がうかがえる。生来の内気に矜持と怯懦が相まって癇癪にもなる彼の性格は、人嫌いへと発展し、社交の場での問題行動として様々なかたちで表れる。

 1861年、セザンヌは大学を中退してパリに向かう。猛反対していた父は実際に失敗を経験させたほうがよいと判断したらしい。エコール・デ・サール(国立美術学校)の受験は失敗し、私塾のアカデミー・シュイスに通うことになるが、ここで、カミーユ・ピサロ(1830~1903)をはじめ印象派の画家たちに出会う。とくにゾラとは連れだってルーヴル美術館などを訪れ、ベラスケスやカラヴァッジョの作品に感銘を受けたようだ。

 しかしながら、結局わずか半年でセザンヌは挫折し、ゾラが引き止めるのも振り切って故郷に戻る。父の銀行に勤めながら地元の美術学校に通うことになるが、やはり勤めには熱が入らず、翌年ふたたびパリへ。父親も諦めて、以後、彼は父から仕送りを受けながらパリとエクスを往復して制作を続ける。言い出したら聞かない頑固さ、自己顕示欲が強いのに臆病で、何かあると実家に助けを求めるお坊ちゃまのモラトリアム気質は、この面倒な親友を気長に説得し続けるゾラの書簡からも読みとれる。

 この頃のセザンヌは、暗く厚い絵具で、多分に空想的な要素のある作品を遺している。神話や聖書のエピソードのほか、暴力や略奪、誘惑や凌辱などセンセーショナルなテーマも多い。ロマン主義的と位置づけられる初期作品は、日本ではセザンヌの画業を通じて作品を所蔵するポーラ美術館の《宗教的な場面 》(1860-62)で確認できる。

ポール・セザンヌ 宗教的な場面 1860-62 ポーラ美術館

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