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ゴーガンの名作はここにある。国内美術館で見られる代表作をピックアップ

国内の美術館には世界に誇る西洋絵画の巨匠の名作が多く収蔵されている。そんな名作の数々を画家のエピソードとともに紹介。訪問の参考にしてもらいたい。今回はゴッホとともにポスト印象派を代表する画家、ポール・ゴーガンを追ってみたい。なお、紹介されている作品がつねに見られるわけではないことは留意されたい。

文=坂本裕子

ポール・ゴーガン かぐわしき大地 1892 大原美術館
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 ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーガン(1848~1903)。日曜画家からの遅まきのスタートで、妻や子も捨てて画家を志し、近代都市パリに背を向けて独りタヒチで「原始的なるもの」を描き出そうとした彼の生涯は、波乱に富み、残された言動とともに、当時の一般的な生活に鑑みれば「人非人」とすらいえるかもしれない。

 しかし、目の前の現実と目に見えない内面、思想や理念に、そして形態と色彩に等価の意味を持たせる「総合主義」を唱えたその活動は、印象派を超える表現を模索していた若い芸術家たちに大きな影響を与え、ヴィンセント・ファン・ゴッホ(1853〜1890)、ポール・セザンヌ(1839~1906)とともに、ポスト印象主義を代表する。

 ゴーガンの画業では、タヒチ時代がもっとも高く評価される。鮮やかな色彩、輪郭線を明確にしたフォルム、描かれる現地の人びとの姿や動植物、彫像などがまとう象徴的な意味は、ときに救いや祈りを、ときに呪いや不安をもたらし、見る者に謎と強烈なインパクトを残す。

 日本にはそうした「ゴーガンらしい」作品は少ないが、たびたび訪れたポン=タヴェンにおける秀作は、国立西洋美術館、ポーラ美術館、アーティゾン美術館などに揃い、画風の変遷を追うことができる。その生きざまとともに、国内で見られるゴーガン作品を追ってみよう。

 そこには、近代西洋世界が抱えていた光と影、そして人間が生きることへの問いを読みとることができるはずだ。

ゴーガンを形成したもの:「革命」の人生

 ポール・ゴーガン(以下ゴーガン)は、二月革命の起こった1848年に共和主義者のジャーナリストである父と、ペルー貴族の血を引く母の長男としてパリに生まれる(姉がいる)。母方の祖母は、「反逆者」とも言われた社会主義活動家でフェミニスト、作家のフローラ・トリスタンである。

 二月革命は、市民革命であったフランス革命(1789)や七月革命(1830)とは異なり、当初から社会主義者が参加した初のプロレタリアート主体の革命と位置づけられる。こうした時代背景と家庭環境は、後のゴーガンの思想や言動に大きく影響している。

 二月革命の失敗により父は失職。一家でペルーに向かう船上で父が急死し、母子はリマの伯父の元に身を寄せる。叔父の娘婿がペルー大統領であったため、ゴーガンは6歳まで特権階級のお坊ちゃまとして育つ。この時代を彼は鮮明に憶えていると語っている。

 1854年、ペルーの政情不安により父方の祖父のいるオルレアンに戻り、カトリック系の名門寄宿学校に入る。スペイン語で育ったゴーガンは、フランス語の環境になかなかなじめなかったようだ。

 17歳から商船の水先案内見習いとして世界中を航海する。兵役で2年間フランス海軍に勤め、1871年、23歳でパリに戻ると、パリ証券取引所で株式仲買人として働く。商才があったようで、11年間にわたり実業家として成功し、絵画取引でも高収入を得ていたという。1873年にはデンマーク人のメットと結婚。5人の子供にも恵まれた。

 この頃からゴーガンは余暇として絵を描き始める。カミーユ・ピサロ(1830~1903)と知り合い、日曜日には彼の家で一緒に絵を描いたり、他の画家たちにも紹介され交流を持つ。1876年には、作品のひとつがサロンに入選。その後は、1879年からの印象派展にも出品している。この時代の作風をうかがえる作品が国立西洋美術館に寄託されており、ピサロの影響を感じさせる。

「画家」の道へ:「孤高」の選択

 1882年、パリの株式市場が大暴落し、証券ともに絵画市場も収縮。ゴーガンの収入は激減し、彼は、絵画を本業とすることを考えるようになる。翌年、家族とともにルーアンに移るが生活は苦しく、妻・メットは子どもを連れてコペンハーゲンの実家に戻ってしまう。ゴーガンも後を追うも、言葉の壁、メットの実家との不和から、次男を連れてパリに戻る。以後ゴーガンがメットの元に戻ることはなかった。

 画家としての生計は立たず、困窮の結果、息子を姉・マリーに預け、雑多な雇われ仕事で糊口をしのいでいたようだ。1886年の第8回印象派展にも出品したものの、ほとんどが過去に制作した作品だった。この時期に制作され、印象派展に出品された1点が、国立西洋美術館が所蔵する《水浴の女たち》だ。

ポール・ゴーガン 水浴の女たち 1885 国立西洋美術館 松方コレクション

 英仏海峡に面したディエップ滞在中の作で、帯のように横一列に構成した画面や単純化された人物、明確な輪郭線など、印象主義から離れつつあったゴーガンの画風を示す重要な一作とされる。

 ディエップの風景を描いたもう1点が島根県立美術館にある。細かい斜めの線を重ねる筆触は、ピサロやセザンヌの影響を感じさせるが、赤と緑の補色の対比や、量感を感じさせる牛や家屋には、後のゴーガンの画風が予告されている。

 この最後の印象派展で衝撃的なデビューを果たしたジョルジュ・スーラ(1859~1891)の点描主義を侮蔑したゴーガンは、ピサロとも反目し、以後敵対的な関係になったとか。

ポン=タヴェンでの開花:「原始」への目覚め

 こうした環境や困窮から、1886年、38歳の夏にブルターニュ地方の小村・ポン=タヴェンに移る。ここには芸術家たちのコミュニティが形成されており、ゴーガンは良心的な家賃の下宿屋で絵画制作に集中する。生活費のために移ったこの村で、彼は大きな収穫を得る。いまだ古代ケルトの伝統を色濃く残すこの村の、素朴で神秘的な風物や人々の姿と、彼を慕う若い芸術家たちとの交流だ。

 最後の印象派展で見たピサロやエドガー・ドガ(1834~1917)の手法を実践しつつ、自身の描きたいもの、その描法、そして理念をかたちづくっていくのが、生涯で4度訪れたポン=タヴェンだといえる。

 1887年に姉・マリーがいたパナマに出航してカリブ海のフランス領土・マルティニークに上陸したゴーガンは、赤痢とマラリアに苦しみながらも12点ほどの作品を制作してポン=タヴェンに戻り、多くの画家たちと交流しながら、大胆な色遣いや象徴的な主題を展開する。

 ゴーガンは、印象派を含め、伝統的なヨーロッパの絵画が写実(目に見えるもの)を重視するあまり、精神的なもの、象徴的な深みに欠けていることに不満を持っていた。万国博覧会などでもたらされるアフリカやアジアの文化が、ヨーロッパにピリミティヴィスムやジャポニスムなどのブームを興していた時代。ゴーガンも、異国の文化にヨーロッパにはない神話的な象徴性や力を見出す。

 ポン=タヴェンのフォークアート、日本の浮世絵などの影響を受けながら、平面的な彩色と明確な輪郭線で構成するエミール・ベルナール(1868~1941)とともにクロワゾニスム(*)へと展開していく。

 第2次滞在期には、「総合主義」を掲げたゴーガンの代表作とされる《説教のあとの幻影(ヤコブと天使の闘い)》(スコットランド国立美術館蔵)が描かれている。

 日本には第1次から3次のポン=タヴェン時代の作品が充実している。第1次滞在期の作品は、ポーラ美術館、アーティゾン美術館、ひろしま美術館で見られる。

 ポーラ美術館の《白いテーブルクロス》(1886)は、ゴーガンが滞在していた宿屋の夫人に、毎年の8月15日の聖母マリア昇天祭の慣習として贈られた作品。セザンヌやピサロの描法を読みとることができるだろう。

ポール・ゴーガン 白いテーブルクロス 1886 ポーラ美術館

 アーティゾン美術館の《馬の頭部のある静物》(1886)は、東洋的な人形と日本の団扇、西洋の馬頭の彫刻が不思議な配置で描かれた静物画。細かな筆致がピサロを、そのモチーフにジャポニスムからの影響を感じられる一作だ。

ポール・ゴーガン 馬の頭部のある静物 1886 石橋財団アーティゾン美術館

 圧倒的な緑の階調が高低差のある森の風景を表したポーラ美術館が所蔵する《ポン=タヴェンの木陰の母と子》。道にとどまる母子の、ブルターニュの民族衣装の被り物の白とスカートの赤がアクセントとなっている。画面の大胆な切りとり方には浮世絵の影響が、さまざまな角度の細かく長い筆致にはいまだ印象派の影響が感じられる。