ここに瀬羅佐司馬がいた──ハンセン病患者・回復者の自画像をめぐって
はじめに
画家が自画像を描くとき、どのような想いを自身の姿に託すのだろうか。その画家がハンセン病療養所の入所者で、さらに自画像がハンセン病患者・回復者に対する隔離政策が厳然とあった時期に描かれたのであれば、どのような意味がその絵につけ加わるのだろうか。そして、絵を見る私たちはどのようにその姿と対峙しうるのだろうか。
本稿は、国立ハンセン病資料館の2024年企画展「絵ごころでつながる—多磨全生園絵画の100年」(3月2日~9月1日)で初公開となった国立療養所多磨全生園(以下、多磨全生園)の入所者の瀬羅佐司馬(せら・さじま)が描いた自画像を紹介するものである。
瀬羅については出身地はおろか、生年も不明で、関連する資料も極めて少ないが、多磨全生園の入所者の氷上恵介(ひかみ・けいすけ)と山下道輔(やました・みちすけ)がそれぞれ1949年の瀬羅の早逝を受けて瀬羅を追悼する詩を書いており、さらにふたりによる瀬羅を回想した文章がある。瀬羅を紹介するにあたって、本稿では主にそれらを参照する。
私事ではあるが、筆者はかつて美術大学の絵画科の在学中に、ハンセン病療養所で行われてきた詩や写真などの文化活動を知り、苦難のなかの根源的な表現について考えさせられてきたものである。本稿は企画展の担当学芸員であることに加えて、卒業後も絵を描いてきたものとしても、どのように多磨全生園の絵画を見たかを書いてほしいという編集部の依頼にこたえたものであることを予めお断りしておく。
企画展の概要──氷上、山下と瀬羅について
放浪するハンセン病患者を「文明国」にふさわしくないとし、収容の対象とした「癩予防ニ関スル件」(明治四十年法律第十一号)に基づき、第一区府県立全生病院(現・多磨全生園)は1909年に開院した。以来、ハンセン病患者・回復者に対する誤った隔離政策は96年まで継続したが、そうしたなかにあっても、療養所のなかでは文芸や演劇など、入所者による様々な文化活動が行われた。企画展「絵ごころでつながる—多磨全生園絵画の100年」で取り上げたのは、そういった活動のなかの絵画についてである。