アンディ・ウォーホル(1928~87)は、アメリカ・ペンシルベニア州生まれ。キャンベル・スープやマリリン・モンローといった大量消費社会の象徴を用いたシルクスクリーン作品をはじめ、旧来のアートの価値観を刷新する表現や活動で知られ、ポップ・アートを代表する芸術家となった。
本記事では『美術手帖』2014年3月号「アンディ・ウォーホルのABC」特集より、井上康彦によるウォーホルの「銀」の意味を読み解く論考を紹介する。
銀色に見るウォーホルの個性
ウォーホルはつねに銀とともにあった。作家性をあえて欠如させていたかのようなウォーホルの「個性」を、銀を軸に検証する。
デヴィッド・ボウイに「アンディ・ウォーホル」という曲がある。彼はそのなかで「アンディ・ウォーホルと銀幕(ルビ:シルバー・スクリーン)はたいして違ったものじゃない」と歌っている(*1)。ここには、ウォーホルと時代をともにした、ボウイの直感が表れている。
ウォーホルといえば「銀」。彼はつねに「銀」とともにあった。『アンディ・ウォーホルの哲学』や『ポッピズム』、さらにインタビューでの発言には、ウォーホル自身が「銀」について触れている箇所が驚くほど多いのだが、このことはあまり中心的に論じられることはない。だれもがウォーホルについて「銀」のイメージを抱いているために、事改めて問題化するまでもない、といったところだろうか──実際、ウォーホル関連の本で、銀色の表紙のものがなんと多いことか。
一般的に、ウォーホルについて解説する文章では、ウォーホルの作品は大再生産・消費社会の商品記号を機械的に反復したものであり、従来の芸術がもっていた「意味」の深さを欠いた表層的な記号の戯れ、シミュラークルの戯れであり、主体性や作家性が欠如したものである、と説明されることになっている。これは誰もが認める正当な解釈だろう。とはいえ、我々がウォーホルの作品に触れるとき、そこには単なる「大量生産・ 消費文化の反映」では片付けられないウォーホルらしさを感じ取ってしまう。ウォーホルには「個性」があるのだ。この「個性」とは何か。説明するのは難しいが、ここではウォーホルと「銀」との関係をもとにこれを考えてみることにする。