梶井照陰は、1976年新潟県生まれ。佐渡島の最北端・鷲崎で僧侶をしながら写真家として活動している。
本記事では、2021年10月号の特集「アートの価値の解剖学」の「多様な価値軸で生きる作家の『美術』の担い方」(監修=原田裕規)で行われた取材をもとに、梶井のロングインタビューを掲載。日本海の波を被りながら撮られた写真集『NAMI』から、本年8~10月に開催される「さどの島銀河芸術祭」まで、限界集落に暮らしながら写真を撮る作家が、地域へのまなざしを語っている。
写真家兼僧侶の「地域」へのまなざし
僧侶で写真家。限界集落での暮らしと制作
──梶井さんは普段、どのような1日を送られているのでしょうか。
普段は、午前2時半~3時に犬に起こされ、散歩をしています。その後は、自分で船を出して魚やサザエを捕りに行ったり、冬はワカメの養殖をしたりします。家の周りに食料品を扱う店がないので、食べ物はできるだけ自分で、と考えています。
朝の勤行を唱えた後は、法事があれば檀家さんの家に向かいます。ただ、近所は空き家が多く、檀家さんが年々減っています。20年前に佐渡に来たときはお年寄りも多く、学校にも数十人の子どもがいたけれど、いまは保育園が2人、小学校は3人、中学校は4人まで減りました。法事の数も減っています。
──毎日のなかで制作の時間というのはありますか。
ちょうどいまは、今年の「さどの島銀河芸術祭」に出展するために取材した話をテキストにまとめているところです。基本的に、取材はある期間にまとめて行うことが多いです。今年も出展のため、4月~6月はずっと撮影を行っていました。佐渡のお年寄りに戦時中の話を聞きに行き、その思い出をご本人に再現してもらう作品です。「千人針」を縫ってくれたおばあさんや、満州へ渡りシベリア抑留されていたおじいさんや、フィリピン、インドネシア、パプアニューギニア、シンガポール、マレーシア、タイ、ビルマ、中国、カンボジア、ベトナムと戦地を回ってきた方などがいらっしゃるんです。そうした記憶をお話ししていただき、そしていま感じることについて、まとめたいと思っています。
──なぜお年寄りに戦時中の話を聞こうと?