杉浦邦恵は、1942年愛知県生まれ。63年に渡米してシカゴ・アート・インスティテュートで写真を学んで以来、50年以上にわたりニューヨークを拠点に活動している。
本記事では、東京都写真美術館で開催された「杉浦邦恵 うつくしい実験 ニューヨークとの50年」展に際して行われたインタビューを公開する。ニューヨークという地で、女性アーティストとして半世紀にわたり活動を続けてきた杉浦の、写真と絵画の両方の要素を併せ持つ「ハイブリッド」な表現をひもとく。
写真もニューヨークの街も、限りないインスピレーションの源泉だった。
1960年代に単身渡米し、ニューヨークを拠点に、様々なアーティストたちと関わりながら実験的な写真表現を探究してきた杉浦邦恵。50年を超えるその活動を振り返る、初の国内美術館での個展に際し、表現の根底にあるものについて聞いた。
うつくしい結果を求めて
──「うつくしい実験」というタイトルには、杉浦さんの作品にあるイメージの魅力と理知的な感覚がよく表れています。個展にかける思いを聞かせてください。
杉浦 これだけの規模の個展は初めてです。ニューヨークでは、アーティストは回顧展の後に落ち込むとよく聞くし、河原温(*1)やウォルター・デ・マリア(*2)は作家は存命中に回顧展をやるべきではないと言っていた。だからオファーがあったときは少し考えましたけど、私はやらせてほしいと思いました。アメリカではキュレーターの力が強く、展覧会をつくるうえで対立することも多いけど、今回は衝突することもなく、インテリジェントでアートに興味がある方たちと一緒に仕事ができて、すごく楽しく、やりがいがありました。タイトルは私の案ですが、美術館とも時間をかけて話し合いました。ファッションで使われる「ビューティフル=美しい」ではなく、「うつくしい悪魔」のような「刺激的な美しさ」を意図したので、日本語はひらがな、英語は「ASPIRING」。私の制作は、とても長い時間をかけた「うつくしい結果が出るための実験」なんです。
──「ニューヨークとの50年」が凝縮された空間をご覧になって、どのような感触がありますか。
杉浦 ニューヨークでの50年間の私の生活そのものも、ひとつの「実験」です。日本人の私をポッとニューヨークに落としたらどうなるか、という意味で。その結果が今回の展覧会ですが、とても濃いです。もう一回は繰り返せない。忘れたかったことも思い出すし、regret(後悔)もあります。大事なのは、集中するだけじゃなくて、長くduration(持続)すること。例えば、《子猫の書類》は、一晩でもいいけど、7晩にわたってやったことを見てもらうことで、見る人にもっとわかってもらえるようになる。
ニューヨークは特別な場所。ニューヨークに住んで制作した人はたくさんいますが、私は50年同じこの都市で制作できたことがラッキーだと思う。私がベストの作家かどうかわからないけど、サンプルとして見てもらうことは、役に立つと思います。
──いまとは時代状況が大きく違うので、日本人として活動する苦労があったと思います。女性アーティストは認められにくく、写真はマイナーな分野だった。そうしたハンディを跳ね返して継続された活動には説得力があります。回顧展でありながらフレッシュで、アグレッシブな現在進行形の感覚に満ちています。まず、アーティストとして活動を開始した頃のお話からうかがえますか。
杉浦 当時は、自分の人生を記録したいという衝動がありました。子供のときから日記をつけていたし、ものをつくるのも好きでした。「心の記録」として何か残したいけど、何をしたらいいかわからなかった。それが、シカゴで写真を始めたときに、対象を撮影することで、そこに潜在的なメッセージが組み込まれることを発見したんです。また、誰かの言葉などからいろいろな刺激を受けてきましたが、それも自分のフィルターを通すと、私なりの表現として出てきました。私は個人のアートがいちばん面白いと思います。フリーダ・カーロも、草間彌生も、ルイーズ・ブルジョワも、アートでしかできない個を表現した。私の場合、写真を通したアートにしかできない個人の記録が願望だったかもしれません。
コントロールを超える
──初期の「孤」に感じる深層心理の表出は、撮影対象に託された内省的な心情だったわけですね。「フォトカンヴァス」や「写真-絵画」シリーズの風景にはナイーヴな感覚がありますね。