アートが助けてくれたおかげで、私の人生は「可能」そのものでした。クリスチャン・ボルタンスキーインタビュー

雑誌『美術手帖』の貴重なバックナンバー記事を公開。4月は、先月に引き続き、現代美術のキーパーソンたちのインタビューや解説記事を掲載する。本記事では、2016年に行われたクリスチャン・ボルタンスキーのインタビューを公開。

聞き手=三木あき子

2019年、ポンピドゥー・センター(フランス)でのクリスチャン・ボルタンスキー「アニミタス」シリーズの展示風景 Photo by DELFINO Claire ©Getty Images

 歴史や記憶、人間の存在の痕跡をテーマに作品を生み出し続けるクリスチャン・ボルタンスキー。本記事では、2016年に行われたボルタンスキーのインタビューを公開する。

 2019年には日本で大回顧展を行い、22年に開館予定の宮城県南三陸町の震災伝承施設のために作品制作を行うなど、国内でも精力的に活動するボルタンスキー。幼少から現在に至るまでの50年の足どりから、その精神性に迫る。

疑問を投げかけ、各自が答えを導き出し、さらに問い続けることが大切なのです。

 人々の気配や記憶を呼び起こすような作品を通して、人間の存在証明を追求するフランスの巨匠、クリスチャン・ボルタンスキー。この秋、瀬戸内海の豊島に新作を設置し、東京都庭園美術館でも個展を開催中だ。自らの死期を意識しているという作家に、日本との関わりや、制作の信念を聞いた。

ホロコーストの残響と不安の中で過ごした幼少期

──まずは人生についてお聞かせ下さい。自伝的な書『ボルタンスキーの可能な人生』(*1)(2009年)によると、1944年パリに生まれた頃、ユダヤ人のお父様は戦時下に迫害から逃れるため、1年半ほどご自宅の床下に隠れて生活をしていたそうですね。

ボルタンスキー アーティストの創作活動の原点にはそれぞれのトラウマがあると考えています。両親の友人たちの多くはホロコーストを生き延びた人たちであり、私はその体験を聞いて育ちました。幼少期に不安や恐怖心をあおる出来事にどっぷりと触れたことこそが、私のトラウマの起源でしょう。とくに父が語った体験から学び取ったことは、人間は隣人を殺しうること、そして誰もが裏切る可能性があるということ。これは自分のその後の人生を決定づける要素となり、今でもそうあり続けています。

 私が生まれた終戦間際は、まだユダヤ教徒のフランス人が殺され続けていました。自分はその暗黒の時期の、最後の生き残りであると言えるかもしれません。創作活動を通して直接的にホロコーストについて語ることも、またそうしたいとも思わなかったのですが、そこで行われた数々の行為は私の人生の方向性や作品にも色濃く影響しているでしょう。

 日本ではそこまで認識されていませんが、ホロコーストの重要な影響の一つに、人間のアイデンティティーを消滅させた、という点があります。ナチスは、キャンプに収監されるユダヤ人たちを「人」と形容することはほとんどせず、あえて「重さ何キログラムの貨物が届いた」と表現していました。人間を物のように扱い、人としてのアイデンティティーをなくす作業をそうやって推し進めたのです。私の作品に多数の人の名前が出てくるのは、この事実を反映しています。つまり、名前を蘇らせることで、人々のアイデンティティーを取り戻し、見つけ直し、再定義する作業をしているのです。

──幼少期には特徴的な育てられ方をされたと聞きました。18歳になるまで一人で出かけることもなかった、と。

ボルタンスキー 学校には通いませんでしたので、確かに他の人に比べると変わっていたでしょう。この特異な幼少期(*2)も、ホロコーストのトラウマと関連していますし、ある程度、作品にも影響を与えていると思います。

──アーティストとしてのキャリアをスタートした頃も、ご家族、特に作家だったお母様は、重要な役割を果たされたようですね。

ボルタンスキー 知識人の家族に見守られて育ち、幸運でした。アーティストになったときも認め、支えてくれたのは家族であり、最初の映画作品『咳き込む男』(1969年)に登場してくれたのも、兄でした。私たち家族は少し変わっていましたが、強い結束力と、親密な関係で結ばれていました。

──アーティストになろうと思った決定的な瞬間というのはあったのでしょうか?