現在開催中の展覧会「奈良美智:君や 僕に ちょっと似ている」は奈良にとって、それまでの迷いに対する答えを見つけ、ひとつ先の段階へと進む契機となった。学生時代から作家をよく知る美術史家・加藤磨珠枝の視点で、現在までの変化に迫る、ロング・インタビュー。
横浜美術館で2001年に行われた個展「I DON'T MIND IF YOU FORGET ME.」から11年後の現在、同じ横浜美術館で奈良美智の新作展覧会が開催されている。これまでの彼の作品、スピード感に満ちたロックな絵画世界を求めて訪れる者は、ある意味で期待を裏切られるだろう。最初に出会うのは真っ暗な展示室──劇的な光に照らされて、ブロンズ彫刻群の姿が浮かび上がる。それらは穏やかな表情で私たちのすべてを受け入れたかと思うと、荒々しい金属の存在感を強烈に主張する。巨大な頭部が四方八方を向いて独白する光景は、異界に迷い込んだかのようだ。そのトンネルを抜けると待ち受けるのは、11年の東日本大震災後、奈良が初めて手がけたインスタレーション。そこでは彼の自宅やスタジオにあった小さきオブジェたちが生命の歌を合唱し始める。
今や国際的アーティストとして注目を集める奈良だが、すべてのことが順風満帆に進んできたわけではない。01年の個展以来、それまで溢れるように制作してきた絵画が思うように描けなくなったり、自身の思いとは離れて独り歩きする芸術家のイメージに戸惑ったり。それらをゆっくりと乗り越えて現在の個展に至るまで、彼がたどった道のりとはどんなものだったのか。
奈良 11年前の展覧会「I DON'T MIND, IF YOU FORGET ME.」は、日本の美術館で初めて開いた個展で、これが自分を日本の中でポピュラーにしたのは間違いないと思う。さまざまな特集記事などで取り上げられるようになったけれど、それにつれて誤解を受けたり、記事が的外れだと感じるようなことも多くなった。自分が不在のまま、世の中が自分の思っていることとは違うふうに進んでいくような感じ。そのおかげでいいこともあったけれど、弊害もあった。
本当は01年の展覧会のテーマは、自分自身の子ども時代についてだった。でも、当時はインタビューを受けても、いつも適当なことを言って真剣に答えてはいなかった気がする。その後、何度も言っているけれど、僕が描く子どもたちは、自分の自画像だったんだ。だけどみんなには、子ども好きな人間だとか、子どもに興味がある人間なんだと思われてしまった。それで子ども関係の映画に対してコメントを求められたりもした。でも、実は自分がリアリティーを持って興味を抱いていたのは、自分自身の子ども時代のことだった。
つまり「I DON' T MIND, IFYOU FORGET ME.」の〝YOU〟にあたるのは「my childhood」のことなんだ。展覧会の冒頭で《YOUR CHILDHOOD》という作品を展示していたんだけど、展覧会という公の場所だから〝YOU〟という表現を使っただけで、要は自分のこと、人が社会化していく過程で自分自身を客観的に認識していく、ラカンの鏡像段階論(子どもが鏡に映った自分の姿を見て、自己を認識する発達段階)のことを考えてつくったんだ。展示では、現実に存在するぬいぐるみと鏡に映ったぬいぐるみがあって、鏡の中を覗き込むことで現実世界では逆さ文字で書かれた「YOUR CHILDHOOD」という文字が正しく現れる。鏡を使うことで「行くことができない世界」、つまり「過ぎ去った過去」を象徴的に表そうとした。だからあの展覧会は、自分が大人になったことを示していて、過去や子ども時代と決別するためのものだった。でも当時、他人から聞かれたときには「(子ども時代のことを)そんなに簡単に忘れることはできないよ」という逆説的な意味でこのタイトルをつけたと話していた。「never forget my childhood」というほうが正しかったんだと。
このタイトルの魅力は、自分自身 〝I〞が、対話相手 〝YOU〞に「忘れられたっていいよ」とすねて語りかけるような、言葉とは裏腹に相手を激しく求める関係性にあったと思う。作品自体も一般募集された奈良のキャラクター風ぬいぐるみを大量に利用した参加型のものだったし、まわりの者にとっては、それが「my childhood」だろうと「your childhood」だろうと、作家の個人的な思いは重要ではなく、過ぎ去った時間や他者に対する熱情、そこから生まれる作品がインパクトを与えたのだろう。
奈良 そして、その後どうなっていったかというと、オーディエンスが増えたことで、その「childhood」は自分だけのものではなくなってしまった。自分だけのパーソナルな視点でつくっていた作品だったはずなのに、自分のものじゃなくなっていく。それがいちばんツラいことだった。でも、そもそも自分がツラい状況にあることに、気づいていなかったんだ。当時は大きな波のようなものに飲み込まれていたから。村上隆さんが東京都現代美術館で同時に個展をやっていたり、その後すぐに「SUPERFLAT」展(2000−01)に出品したりしているうちに、結果的に「日本文化の中で育まれた表現」という視点だけで作品が語られることになってしまった。
そのときの心情を例えるなら、インディーズ・バンドが突然メジャーになってしまうことに似ている。インディーズのファンって、バンドとオーディエンスがパーソナルな関係でつながっていると思っているところがあるじゃない? 自分も作品を通じてファンとはそういう私的な関係でつながっていると思っていたのに、メジャーになるとその関係は崩れて、自分対個人だったのが自分対多数に変わってしまう。だけど僕は大波の中に飲まれてしまっていたから、すぐには気づかなかった。それが結局は自分自身を忘れてしまうことになる、その後の数年間につながっていった。本当は自分個人にとって、とても意味のある展覧会だったはずなのに。渦中にいるときは気がつかないものなんだよね。
それと同時に、自分が社会の中に取り込まれていった感覚がある。それまで自分一人で適当に生きてきたと思っていたのに、急に社会に参加している気持ちになっていった。映画のコメントとか、いろんなレビューの執筆依頼が来るようになって、それまで社会とは関係ない、疎外された場所にいると思ってきたはずが、急に自分が社会に必要とされているという気持ちになってウキウキしていった。それまで社会参加とは別の場所に制作のモチベーションがあったはずなのに。それがあの展覧会の後の数年間だった。
社会との関わりが増え、コラボレーション制作へ
有名になったことで、奈良の作品がこれまで現代アートに興味のなかった層にまで広く知られていったのは事実である。しかし、それもひとつのきっかけであって、以前から作家を知っていた者たちと比べて、01年の個展以降に知った者たちと作品との関係が必ずしも希薄であったとは言えないはずだ。
奈良 メジャーになったとき、自分のアンテナで、あるいは偶然に僕の作品を知ってくれた人たちと、コマーシャリズムや流行の中で作品を知った人たちの間には決定的な違いがあった。その頃思い出していたのは、ドイツにいたときに読んだ本のこと。マイケル・アゼラットが書いたニルヴァーナのカート・コバーンのインタビュー集『病んだ魂』(原題:COME AS YOU ARE)。その中で、ニルヴァーナがまだインディーズだった頃には、自分の好きな人や自分が望むタイプの人しかライブには来なかったのに、ヒット曲を出したことで、いちばん嫌いな体育会系の連中がやって来て、前の方でノリノリにはしゃぐ状況が生まれてしまう。それをカート・コバーンが歌いながら複雑な心境で目にするという逸話。カート・コバーンと自分を一緒にするのは恥ずかしいけど、そのツラさみたいなものがすごくよくわかって、最悪な気分になった。
あの頃は、個人的な視点で自分や作品を見てくれている人たちのことよりも、そうじゃない人たちのことばかりが目について、そういった人たちが「嫌だ!」ということしか頭に入らなかった。そのときなぜ自分は、共感してくれる人たちのことを考えられなかったのかなと今になって思う。あの渦中にいたとき、なぜそれに気づけなかったのかと。