絵画は誰のものだろう。描いた画家の、あるいは、それを買った人や所蔵した美術館のものだろうか。見ることは所有すること? 写真に撮る、模写をすることは? 描かれた人は(ものは)その絵の所有に関わりを持つのだろうか。名知聡子と西山弘洋、旧知の二人の対照的な画家──私性をとことん掘り下げてきた名知と、それを消すことで絵画を展開しようとする西山──による参加型の公開制作。参加者にその場で写真を送ってもらい、プリントアウトする。そこから名知がかたちを抜き出し、白黒でトレースする。それを展示室の中央に立つアクリルの片面に貼りつける。西山は、名知が写真から抜き出した色彩をカラーチャートとし、写真提供者のコメントを手がかりにかたちを描いていく。基本はこの繰り返しだが、両者が同時に作業をすることはない。これが会期末まで続けられたのち、パネルは切り分けられ、最後にカタログ購入者にランダムに頒布される。
切り出されるイメージも、選び取られるカラーチャートも、最初の写真の持ち主の思い入れや気持ちを必ずしも反映しない。それは画家の目線で選び取られ、かたちと色に分断され、同時に最初の所有者からも分断される。したがって参加型ながら、はじめに名知による暴力的な切断があり、逆に西山にすれば、分断されたものを、わずかな手がかりを頼りに回復しようとする想像力こそが問われる。
はからずもゴーギャンの《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》を思わせる横長の透明のアクリルの両面に、描く行為──このけたたましいまでに加速した世界において対極的に遅い──によって浮かび上がるものはなんだろう。ある人からやって来て、最終的にカタログの一部としてまったく別の人へと受け渡される断片。それを所有するのは誰だろうか。
こうした参加型のプロジェクトについて作品の形式的な質を問うことは、昨今の批判にみられるように難しい。今回はなおさら。あえて慣れない方法で試行錯誤しているうえに、最終的に作品は細切れになってしまうのだから。であれば焦点は、自ら設定した課題に黙々と取り組む画家の、その遅い営みにかかる負荷を想像することにある。SNSや参加型といった今っぽい設定は、この特訓のような企画のための口実にすぎないと言い切ってよい。そこに賭されているのは、共有されたイメージとそれを描く画家の、それを見る鑑賞者の感情の揺らぎについて(感情を込めることではない)想像することであり、また、それを多数と分有しながら、なお自らの制作へと貪欲に回収していこうとする作家の欲望の豊かさである。
画家たちの姿勢そのものが前景化するこのプロセスは、かえってそのために美術の枠組みにとどまらない連想を誘う。他者から否応なく受け取り、しかし手をかけ、かたちを変え、切り分け、別の誰かへと送り出す、この一連の流れを私たちの生になぞらえてみれば、それはたとえば言葉や感情、そして命のことではないか。であれば、画家から送り届けられた断片はその時点で絶対的にあなたのものである。しかし同時にあなただけのものではない。
PROFILE
すずき・としはる 豊田市美術館学芸員。1982年生まれ。『疾駆/chic』にて「けわうもの|化粧と建築、あるいは絵画」を連載中。
(『美術手帖』2017年3月号「REVIEWS 09」より)