2020年10月17日、当初予定されていた会期から約7ヶ月遅れて、「さいたま国際芸術祭2020」が静かに開幕した。36万人が訪れた初回の「さいたまトリエンナーレ2016」に足を運び、第2回を楽しみに待っていた方も少なくなかっただろう。ディレクターは芹沢高志から、公募によって選ばれた映画監督・遠山昇司へとバトンが渡り、「花 / flower」をテーマに、芸術祭を通じて開催地が持つ価値を問い直す、意欲的な企画を準備していた。しかし3月14日の開幕を前に、新型コロナウイルスの感染拡大に伴う文化活動の自粛要請、緊急事態宣言の発出と事態が悪化の一途を辿ったのは、ご承知のとおり。花といえば──の桜も散り、秋を象徴する菊が開く頃、展示を予定していた内外37組のアーティストのうち、5組の参加が叶わぬまま、会期を65日間から30日間に短縮して、ようやく開催に漕ぎ着けた。
本来であれば、バナーが埋め尽くし、祝祭ムードで沸き返っていたであろう大宮駅前の大通りは、見慣れた雑踏が戻りつつある。疫病からの「回復」の結果とは言い難い人波に戸惑いながら、ブループリントのような手元のガイドを頼りに進む。そして「望むのは世界の美しさであり、ひとりひとりの美しさなど」「放棄して、それだけを成し遂げることこそが、あの夜の」と、白い塗料フィルムで記された、最果タヒの詩が行きつ戻りつする地下通路を通り、主会場のひとつである旧大宮区役所の、カラフルに塗り分けられた玄関ホールへとたどり着く頃には、いつの間にか上演の始まった物語の中に、自分が入り込んでいることに気づくのだ。
さて、その先のページをどうめくるのか。こうした芸術祭では珍しいことだが、メインサイトには「推奨」順路が設定されている。映画監督として、自らを芸術祭の「語り手」と位置づける遠山の、周到な「作劇」に身を任せてみるのも悪くない。幸か不幸か、世界中で美術館・博物館、展覧会、そして芸術祭のあり方が問い直されている今、完全予約制で管理された入場者数であれば、自分のペースでゆったり作品を観て回ることができる。
長く「区役所」としての機能を担い、まだその空気が濃厚に残る建物内で展示を行うアーティストは19組。与えられた展示スペースも贅沢な広さで、「個展」と言えそうな規模と幅のインスタレーションを展開した作家も少なくない。なかでも、「福祉課」「支援課」「高齢介護課」と記されたサインが天井から吊り下がる1階フロアに展開された、篠田太郎のインスタレーションは印象的だった。天井のあちらからひと筋、こちらからひと筋──と音もなく砂が降り注ぎ、廃棄された電気コードが這い回る床のそこかしこに、小さな砂丘が育っている。相談用にと仕切られた個室では、壁に立てかけられたホワイトボードが砂に埋まっていた。「自助・共助・公助」というかけ声の響く今この時、音もなく降り積もり、世界を埋めていく砂を、現実の世界で意識することは難しい。
いっぽう、広大な地階を丸ごと作品化した梅田哲也は、その現実を無化してみせる。旧区役所の地階は倉庫であったり、食堂であったり、外部の人目にさらされることのない、バックヤードとして使われてきた。そもそも「公の論理」に厳しく律された上階と比べ、そこで働く人々の「私」が漏れ出る場所でもある。加えて、本来あるべきものをわずかにずらしたり、外したり、移動させることで、地上のルールやヒエラルキーを無効化する梅田独特の手法によって、違和感に肌の粟立つような、広大な「異界」を出現させた。
旧大宮図書館を使ったアネックスサイトでは、若手や市民参加プログラム「さいたまアートセンタープロジェクト」のほか、企画展「I can Speak ─想像の窓辺から、岬に立つことへ─」という、公募キュレーター、戸塚愛美による試みが意欲的だ。戸塚は若手を中心とする5人の作家を起用し、詩、サウンドインスタレーション、映像作品、立体など多様な表現手法を通じて、旧大宮図書館やその周囲の場所・歴史と響き合う展示をつくりあげた。古い閲覧室に残る傷や汚れ、あるいは窓外の風景に「言葉」を与えることで、「鑑賞」という行為を成立させた詩人カニエ・ナハの作品は、最果タヒと好対照を成している。
これらメインサイトでの展示のほか、大宮、浦和のまちなかや文化施設で展開されるスプラッシュサイト、映像作品の上演や公演イベントまで含めた「オンサイト」、そして会場へ足を運べない人たちにむけての「オンライン」、そして会期中だけで終わらず、今後も継続していく市民参加プログラムなど、「さいたま国際芸術祭2020」は、複数のレイヤーにわたるアートプロジェクトによってかたちづくられている。
花は、咲いている時だけの存在ではない。種の時間を過ごし、葉や茎を伸ばし、実を結び、次の世代へ生命を受け渡す。芸術祭を訪れる観客はさしずめ、虫のように、鳥のように、花粉を媒介し、種子を散らす役まわりというわけだ。自らが運ぶものを自覚的に選ぶことは、恐らくできない。心のどこかにいつの間にか落ち、ひっそりと身体に張りつき、そのつもりもなく運んだ何かが、アートですらない別の何かと受精し、遠く思わぬ場所に芽吹き、根づき、葉を茂らせ、やがて見たこともない花を咲かせるのだ──という物語は、私が読み、聴き取ったもの。また違う物語が、花が、あなたを待っている。