「音楽が聞こえない」 (*1)
これは、三島由紀夫の小説『音楽』に登場する20代なかばの女性・麗子が、精神分析医・汐見に訴えた症状である。彼女は、食欲不振、嘔気、顔面チックとともに不感症を併発していた。そしてここでは「音楽」は性的快感を意味する。三島は、学問的には分析しきれない人間の不条理さや性の諸相を描いたこの名作に関してこう述べている。
今日、われわれの心に楽の音は絶えてゐる。精神的な音楽も肉体的な音楽も。(中略)つひに彼女はその音楽を、耳に、体内にたしかにきくことができるだらうか? できるとすればいかにして? それは、それとも幻覚だらうか? 現実のまちがひのない音楽だらうか? (*2)
「楽の音は絶えてゐる」。社会の発達の中で制度化された人間は、その内なる音楽に耳を傾けることをやめ、規範にもとる生き方を余儀なくされたことを謳う。それはまるで、人間の内面に渦巻くシャドーを追いやり、“正しさ”というお仕着せのペルソナを身に纏うことを至上とする今日の時流のようである。だが、高田の今作には、脈動する音楽が流れている。
つくり手の内なる声の発露/人間への探求──芸術表現にはそうした側面もある。ヴィンセント・ファン・ゴッホがその耳を切り落とした狂気性。『不思議の国のアリス』で知られるルイス・キャロル(*3)や、死後に膨大な絵画が発見されたヘンリー・ダーガー(*4)による少女への偏愛。また日本映画においては、大島渚の『愛のコリーダ』 (*5)にしろ、寺山修司の『書を捨てよ町へ出よう』(*6) にせよ、または北野武映画にせよ、多くの日本映画は性愛や暴力に関する衝動やフェティシズムも含みながら人間の本質にせまってきた。芸術とは、それらを抜きにしては語ることはできない。だが、これらの表現こそ、表向きの社会の中では語りづらくも、人間の根底に根付く性質を露わにしてきた。だが、時代が進むにつれて次第にアンダーグラウンドへの理解が薄れ、芸術という世界においても、人間が抱える闇は語りづらいものとなっていった。
そのひとつの要因に、美術館という場所の性質があげられるだろう。公の目に晒される美術館という場所は、公立か私立かを問わず、社会規範に基づく判断を余儀無くされる。教育委員会によって設置され、税金が導入されている公立館はもとより、企業によるプライベートミュージアムであっても企業イメージに影響が出るようなことはできない。その判断には、政治性が絡むこともある。また、ポリティカル・コレクトネスが近年急速に注目されるようになったことや、SNSにおける集団監視が広まっていったこともあげられるだろう。また他方で、国境なき記者が発表する2021年の世界報道自由度ランキング(*7)において、日本はG7諸国の中で最も低い67位という事態もある。これだけものを言えるツールが発達しながらも、もの言えぬ社会が広まり、個人個人までもがレピテーション・リスクを強く意識する時代へと変容していった。これは、多様な感受性やイデオロギーを持つ人々の共生に向けた、成熟した社会の遥かなる道の中にあるのかもしれないが──。
こうした状況を踏まえ、東京都現代美術館にて『キセイキノセイキ』(2016)(*8) が開かれたことは記憶に新しい。看守と囚人の関係をシミュレーションし、人間の暴力性をあられもなく表現したアルトゥル・ジミェフスキの《繰り返し》(*9) や、「天皇の肖像」をモチーフとした小泉明郎の《空気》(*10) という作品が自主検閲を余儀無くされるなど、物議を醸し出す展覧会となった。高田はその中にいた。確かに高田のフェティッシュな感性は時として規制の対象となることもあり得るが、しかし、制度批判に主眼が置かれたこの展覧会の中で、その純然たる人間の性質への探究心は、少し異質なものに思えたことが記憶に残っている。
高田は、本展の中で性をテーマとした5つの映像作品を展示していた。思春期の少年の夢想(=夢精)をテーマにした《The Princess and the Magic Birds》は、部活動を彷彿とさせるスポーツ用具が並ぶ部屋の中で、2匹の小鳥が少年の耳元で淫靡な物語をさえずるという作品である。アラビアのとあるお姫様が身分の低い男たちと体を重ねていくこの物語は、身分の高さと相応の振る舞いを求められる立場による抑圧を破って、欲望を満たし、その悦楽へと大胆に踏み込んでいく話である。それは、王女というペルソナを纏う一方で、性衝動に突き動かされるシャドーを抱えたひとりの両面を描いている。荒い呼吸とともにその物語をさえずる小鳥は、淫らな欲望に溺れる人間の物語を、純白で無垢な少年の心に垂らし、汚してやりたい、という欲望に駆られている。それは、純粋なものに向けられた大人たちの下卑たる眼差しであり、少年愛や少女愛に通じる。高田は少年愛に関するエッセイで知られる稲垣足穂を読んでいたという。
稲垣足穂の『一千一秒物語』(*11) にちなんだ《1001 seconds》は、稲垣のエッセイ「A感覚とV感覚」(*12)に触発された映像作品である。画面には身を悶える高田自身が映る。高田は、意を決したように水中に屁を放ち、揺れる水面の向こうに見える身体は、歓喜にあふれて踊っている。排泄の前後にあるこの関係に身体的快楽を見出し、性愛における感覚との近似性を想起させる。稲垣の「A感覚とV感覚」は、まさにその微妙な差異に注目しながら、アナルとヴァギナと、ペニスについての感覚の差異と、その要因となる状況を概念的かつ極めて分析的に記述している。その差異の中に、人間の機微が隠れているとでもいうように。
稲垣足穂がそうであるように、これまでの多くの表現者たちは、人間の内面を鋭くえぐり、欲望と恍惚、そしてその反動にある失望と葛藤を、時には苛烈に、時には淫靡にそれらを描いてきた。しかしそれは、現代の目からすれば、時として、排除すべきものとして映るかもしれない。だが、芸術とは、内在する陰陽や善悪の蠢きと葛藤によるアンビバレンスな張り詰めた緊張状態の果てに、輝きを増していく。だからこそ、正しさを振りかざすばかりが芸術論の本懐ではないし、欲望や惰性を前提としなければ人間の本質は見えない。原罪の概念をひいてくれば、人間は生まれながらに罪を背っている──とされるのだから、その陰と陽の背反性は微妙(はかな)くも美しい人間性を表象し、「音楽」を奏でるのだ。
*1──三島由紀夫『音楽』より。1964年(昭和39年)、雑誌『婦人公論』1月号から12月号に連載され、翌年1965年(昭和40年)2月20日に中央公論社より単行本刊行された。文庫版は新潮文庫で刊行されている
*2──「作者のことば(『音楽』)」(婦人公論 1963年12月号)。32巻 2003, p. 623
*3──本名:チャールズ・ラトウィッジ・ドジソンは写真家であり、初期の芸術写真史にもその名を残している。イギリスの上流階級の家族を多数撮影している。現存している1000枚程度のうち、半分以上が少女を撮影したものである。彼女たちは”小さなお友だち”と呼ばれた。よく知られている少女モデルは、『不思議の国のアリス』のモデルにもなったアリス・リデル
*4──子供を奴隷にする悪の大人と戦う、少女戦士ヴィヴィアン・ガールズの絵物語『非現実の王国』で知られる
*5──男女の愛憎の果てに男性器を切り取るという、実際に起こった「阿部定事件」をモチーフにした大島渚監督の映画。1976年。
*6──寺山修司の評論集『書を捨てよ、町へ出よう』と同名の映画。寺山が同年に旗揚げした演劇実験室「天井桟敷」のドキュメンタリー・ミュージカルの映画化。1971年
*7──2021 WORLD PRESS FREEDOM INDEX(https://rsf.org/en/ranking#)2021年9月28日参照
*8──「表現規制」に焦点を当てた展覧会で、アーティストによる自主的な組織「ARTISTS’ GUILD(アーティスツ・ギルド)」と東京都現代美術館の協働企画
*9──第51回ヴェニス・ビエンナーレ、ポーランド館にて発表された問題作。1971年にカリフォルニアのスタンフォード大学で行われた「監獄実験」を、文字通り再演したドキュメンタリー
*10──「キセイノセイキ」展のために制作したものの、展示することのかなわなかった作品。自主規制の痕跡を残すという意味で、展覧会場にはキャプションだけが展示された。参照:「無人島ギャラリー」ホームページ(http://www.mujin-to.com/exhibition/%E7%A9%BA%E6%B0%97/)2021年9月29日閲覧
*11──1923年(大正12年)に東京の金星堂より出版された、稲垣足穂の処女作品集であり代表作
*12── 少年愛をモチーフに、性感覚について記述したエッセイ『一千一秒物語』に収録