淡々とした日常をじっと見つめる
新型コロナウイルス感染症に伴う最初の緊急事態宣言が出てからまもなく1年となる。1年前、ほぼ無人となった街にはピリピリとした緊張感が張り詰め、「非日常」が世界を覆っていた。現在は2度目の緊急事態宣言が出ているが、もはやそれが「日常」となってしまって、街にはどこか緩い空気が漂っている。
「日日の観察者」はまさに「日常」をキーワードとした展覧会であり、参加しているのは、日々の生活の観察から得たものを作品化する4人の作家だ。タイトルはつまり作家たち自身のことであり、同時に作品を見る観客自身のことである。
花岡伸宏は制作を生活の延長線上に位置付け、日用品なども素材にしながら彫刻作品を制作しており、使われた素材をそのままタイトルにしている。会場であるHOTEL ANTEROOM KYOTO|Gallery9.5の中央には名和晃平の常設作品があるが、本作とコラボするように展示された《衣服、手、木材》では、生活の一部である衣服と名和の作品の表皮のイメージが関連付けられていた。
藤野裕美子は道端や廃屋で見つけたモチーフと植物を組み合わせ、どこでもないどこかのイメージを描き出す。特徴的なのは仮設の骨組みによって絵画を空間に立ち上げる展示方法であり、《ちぐはぐな接点》では立ち上げられた絵画のあいだに立ち入ることさえできた。
花岡と藤野の作品は、入場すると最初に目に入る。混然として空間を構成しており、壁によりかかる彫刻や、空間に立ち上がる絵画など、形態の転倒が興味深い。その空間の床に松元悠の作品の一部である石板とタペストリーが転がっている。
松元は、マスメディアの取り上げるニュースの場所を実際に訪れ、観察者の立場からリトグラフを中心に作品を構成する。《在る碑(黒鳥山公園)》は黒鳥山公園をめぐる3つの作品から構成されている。戦争の記憶を語る3つの碑にまつわる「遺る碑」、交通事故死した娘が生前コンクリートに残した足跡をくり抜いた母親と、彼女が戦った裁判の記録にまつわる「お母さんの碑」、そして園内で発見された身元不明の頭蓋骨にまつわる「無名の碑」。
入り口にあった石板とタペストリーは「お母さんの碑」に関わるものである。会場奥の壁面では、地図や書籍、メモや写真、イラストなどいくつもの断片が展開され、時代も来歴もまったく異なる3つの要素が、黒鳥山公園という場所と松元を通して組み上がり、展覧会のなかでも異色の迫力を放っていた。
小出麻代は、時間や記憶にかかわる作品を発表している。《別の言葉で(氷とコップ)》、《別の言葉で(カーテンと窓)》、《別の言葉で(拾い物と影)》と題された3点の作品は、どれも小出による日常の記録の結果であり、まるで激変する日常に流されまいと自身をつなぎ止めるようとするものであるかのようだ。取り戻すでもなく新しいでもない、別の言葉を探しているとステイトメントで本人が語っているように、小出は自身の日常と現状の日常の間に齟齬を見出して、それを言葉にならないまま、素直に表現にしようとしている。
また、本展はInstagramアカウントを開設し、会期前の2020年8月1日から会期が終了する1月10日まで、同日の同時間に作家それぞれが定点観察として写真を投稿していた。昼食後の箸先をアップする花岡、出品作をつくる小出、別の展示のハンドアウトを校正する藤野、職場で休憩する松元。作家の目を通した日常が複眼的に展開されていくInstagramから感じられたのは、コロナウイルスが出現する前の日常が変わらず継続されているという、ある種の錯視的な安心感だった。そして会場で配布されたハンドアウトには、キュレーターの伊藤まゆみによる各作家へのインタビューと、作家同士によるリレーインタビューが掲載されている。もしかしたらイベント開催を断念したことの代替だったのかもしれないが、これらのテキストは、それぞれの作家のバックボーンやいち個人としての存在感をより意識させるものになっていた。Instagramやハンドアウトが、作品と作家の生、そして作品同士の関係性を明確にし、展覧会全体の構造を強化していた。
本展から見えてくるのは、日常化する非日常の姿ではなく、むしろその背後で淡々と歩を進めるかつてと同じ日常の姿である。社会のラディカルな変化に自身の体を少しずつ馴染ませていく小出や、日常を淡々と歩む強さをもった花岡や藤野、日常に潜む記憶を観察者の目線からフラットに拾い上げていく松元。彼らは社会の構造が揺らぐなかで、目先の変化にいたずらに踊らされ、その外形をなぞるのではなく、これまでの歩みの延長にある淡々とした日常のそれぞれの場所から、じっと変わりゆく日常を見つめている。社会全体が大きな変化にさらされるいま、そうした変化を敏感に感じ取りリアクションする表現に対して、本展において示された日常に対する視線や表現は、いつか現状の変化が落ち着いたあと、あるいはいまの非日常がさらに日常化してしまったあとも、その輝きを失うことはない。