「懐かしさ」を具体的に知ること
群馬県立近代美術館で、「佐賀町エキジビット・スペース 1983-2000 現代美術の定点観測」が開催されている。
展示は大きく3つに分かれており、まず会場に入ると林雅之や安齊重男らによって撮影された展覧会・イベントの記録写真が開催された順に並んでいる。次に実物の作品が40点展示され、立花文穂《UMEBOSHI》(1994)や岡部昌生《STRIKE-STRUCK-STROKE AT SAGACHO, SAGACHO EXHIBIT SPACE 1927/1986/2020》(1986/2020)などの、個人で収蔵するには保存が難しそうな巨大なもの、紙やビニール製の作品までが現存していることに驚かされる。そして最後に、佐賀町エキジビット・スペース(以下、佐賀町)が発行した書籍・DM・パンフレットなどの一次資料が紹介されている。レントゲン藝術研究所でも開催された古井智の「ICONOSCOPES」展(1990)のカタログなどがガラスケースに展示されている。椹木野衣や毛利嘉孝などが寄稿しているので、手にとって閲覧したかったが、それは叶わず、少しもどかしい気持ちなる。
近年、「起点としての80年代」展(金沢21世紀美術館ほか、2018年)を皮切りに、80年代から90年代の表現を回顧した展覧会が国内外で相次いでいる(*1)。これほど各地で展覧会が開催されているという事実は、80年代から90年代がひとつの歴史として語られる時代になったということを示している。
日本では1970年、銀座に「歩行者天国」が導入され、繁華街という消費経済が生まれることで貸画廊システムが急速に発展した。80年代になると、こうした貸画廊システムに疑問を持った若手作家たちが、新たな発表の場を求めるようになった。そのような状況のなか、パルコなどの企画広告を担当するディレクターであり、無印良品の立ち上げにも関わった小池一子は「美術館でも商業画商でもない」もうひとつの美術現場を提唱し(*2)、発表の場所を求めるアーティストに寄り添った空間をつくり上げ、佐賀町は日本の「オルタナティブ・スペース」の先駆けとなった。本展が開催された背景には、80年代検証の流れのなかで佐賀町を取り上げたいという企画担当者の思いがあったに違いない。しかし、佐賀町エキジビット・スペースという場所を語る展覧会としてはあまりにも難解なものであった。
筆者が佐賀町の存在(正確には食糧ビル)を知ったのは、椹木野衣『美術になにが起こったか 1992-2006』の51ページ、「消えゆく建物への追憶 内藤礼『地上にひとつの場所を』」だった。ここには2002年の食糧ビル解体前に行われた最後の展覧会「エモーショナル・サイト」についての記述があるが、佐賀町自体についての詳細を知る術は限られている。『美術手帖2019年6月号 80年代★日本のアート特集』にも作家紹介の枠で展示写真として紹介されていた(*3)ものの、佐賀町について具体的な記述はない。そこでは筆者が研究しているレントゲン藝術研究所というオルタナティブ・ギャラリーなどについても少なからず言及されているが、ただある種のムーブメントとして扱われている。作品や作家、展覧会については多く語られるが、展示空間については注目されることが極めて少ないと言える。しかし本来注目されるべきは、既存の画廊や美術館ではないもうひとつの展示スペースが、新しい美術の動きを支える重要な働きをしたということではないだろうか。
オルタナティブ、インスタレーション、パフォーマンス、ファッション・デザイン、サイトスペシフィック、アーキテクチュア、インテリア・デザイン、ノン・ジャンル、コンテンポラリー・フォトグラフィー、コンセプチュアル、ウーマンパワー、アーティスト・イニシアティブ、ハイ・アンド・ロウ
本展のチラシなどのビジュアルイメージの中央には、佐賀町主宰である小池の思想を横断するような言葉が並んでいる。そこから、本展は佐賀町というスペースの軌跡をたどることを目的とした展覧会だと推測できる。つまり、過去の作品から時代を回顧するような、これまで行われてきた展覧会とは違い、あくまでもスペース史を振り返ることに重点を置いているはずである。しかし実際の展示では、チラシの言葉について具体的な言及はなされていない。
「定点観測」という言葉は、同じ場所(定点)から、情報を時系列的に観測・観察し、比較して分析をすることを意味する。本展の場合、定点とはどこを指し、分析対象は何を表すのか。この曖昧さが、本展を難解にしている要因ではないだろうか。
この疑問を解くために、本展を革新的で新しい表現による作品を展示した場所=佐賀町を振り返る展覧会として、展示構成に目を向けてみたい。まず入り口の写真群は佐賀町で行われた表現を時系列で記録しており、ここには時代の移り変わりが見て取れる。また3つ目の展示室においても、年表や一次資料などから佐賀町を分析することができる。
しかし、問題は2つ目の展示室だ。本展のように分析結果を展覧会という形式で見せず、あくまでも鑑賞者に結果を委ねているのであれば、2つ目の展示室はあまりに高度ではなかったか。ここでは当時佐賀町で展示された作品が紹介されているが、作品の見せ方に意図が感じられないのである。小池は本展カタログに以下のような言葉を寄せている。
本展は佐賀町エキジビット・スペースの関わりえた優れたアーティストの作品群から展示可能な条件を満たすものだけで構成した。作品誕生時のままの収蔵品から立ち上がるもの、それはリリアン・ヘルマンが自伝のタイトルとしたので知られた『ペンティメント』という言葉に集約される。絵画の表面を後世の筆が何度も塗りこめたとしても、必ずや出現する何か、苦い思い出も含めてそれは出生時のイメージ、フォルム、そしてストロークに現れ出てくる何かである。(*4)
小池の言う「現れ出てくる何か」とは、佐賀町についてではなく、あくまでも個々の作品や時代について向けられた言葉なのではないか。そうとらえると、2つ目の展示室の展示形態は納得がいく。しかし、佐賀町が革新的な場所であり、新しい表現による作品を展示したという事実を回顧するのであれば、作品が制作された時代背景や、展示された理由を補足するヒントが欲しかった。つまり、スペース史を回顧する展覧会としては情報が足りず、筆者のような当時を知らない人間には、高度な展覧会に思えたのである。
本展は、作家や作品に主軸を置いた構成になっているが、佐賀町という時代を先取りしたオルタナティブなスペースの真の功績を、むしろ見えづらくしているように感じられた。すでに存在しないオルタナティブ・スペースを美術館で回顧することの意義は、それを歴史化するということにある。あの時代に、なぜ、これらの作品が佐賀町で展示された/されなくてはならなかったのか。この表裏のプロセスまで明らかになれば、佐賀町エキジビット・スペースが残した功績が後世に伝わっていくことになるに違いない。近過去を研究するうえで最大の特徴は、当事者が健在であることだ。たとえ一次資料が散逸していたり、情報を分析してもわからない部分があれば、直接質問して補うことができるのだから。本展が当事者を巻き込んで開催されたことにまずは敬意を示し、これをきっかけに今後さらなる研究が進められ、より多角的な視点で議論されることを期待したい。
*1──「起点としての80年代」展(金沢21世紀美術館ほか巡回、2018〜2019)、「ニュー・ウェイブ 現代美術の80年代」展(国立国際美術館、2019)、「バブルラップ」展(熊本市現代美術館、2018〜19)、「パレルゴン:1980年代、90年代の日本の美術」展(BLUM&POE、2019)など。つい最近では、90年代前半のアートシーンを検証する「アーリー90’S トーキョーアートスクアッド」展(3331アーツ千代田、2020)が開催された。
*2──「語る 人生の贈りもの 小池一子:1」朝日新聞、2020年10月20日
*3──石原友明紹介ページ内の展示風景写真とそのクレジット『美術手帖2019年6月号 80年代★日本のアート特集』(美術出版社) p.12
*4──小池一子「ペンティメント――生まれ出たものたち」、展覧会カタログ『佐賀町エキジビット・スペース 1983-2000現代美術の定点観測』p.17