人はなぜ花を愛でるのか
昨今、多肉植物の市場が活況を呈している。珍奇植物がカルチャー雑誌で特集され、アフリカから輸入された多肉植物が驚くべき高額な価格で売買されている。ワシントン条約の規制対象になるという情報が出るとさらに高騰する世界。環境の異なる地に順応できず、枯れることも多々あるにもかかわらず、狂ったように盛り上がる塊根植物のマーケットを見ると、希少価値の追求と金銭欲という人間の底知れない欲を感じる。人間の欲への憎悪と造形的魅力の狭間で揺れ動いた結果、私のベランダにもアフリカの地に根を生やしていた塊根植物がいる。
花への関心は、文明の開始を区切るひとつの指標として考えられている。ほかの動物と人間とを隔てる差異のひとつでもあるだろう。人類の創造物の歴史、美術史、工芸史、装飾史、服飾史、文様史を通して見ると、生存に不可欠ではない花が、東西、時代を問わず、人間にとって何かしら欠かすことのできない物であったことがわかる。
2019年、日本の家の中をさっと見回しても、ハンカチ、ポーチ、お菓子の箱、ウェットティッシュやトイレットペーパー、生理用品のパッケージ、花が描かれた物がいくつもある。大文字の歴史に残らないような、クラフトや日常生活の雑多な物にいたるまで、多種多様な物に花が描かれている。時代、社会が変化しようとも、多方面で描かれ続ける花には、人間の何が映し出されているのだろうか。
今村文は、花を描き続けているアーティストである。古代の絵画技法、エンコスティックの技法で画面を小花で覆うペインティングと水彩で描いた植物を切り取ってコラージュする、2つの代表的なシリーズがある。人類の時間を感じさせる古代の技法と民衆工芸的な技法、それにペルシャ絨毯やウィリアム・モリスの壁紙、植物が図案化された家紋、着物の文様といった多様な装飾を彷彿とさせる図象によって、今村の表現活動は、「女の子は花の絵を描くのが好き」ということに回収されるのではなく、先史時代から人類が行ってきた装飾、という人の営みの延長線上にあると考えられる。
花や葉や根が増殖し、色が滲み形が歪み、花や根がときに反転する今村の流動的世界は、自然界の生命の原理である、生と死と再生が無限に繰り返される生命循環の思想が根底にあるのだろう。
資生堂ギャラリーの地下空間に展開した《見えない庭》では、水彩で描き切り取った大量の植物と昆虫、それに自身の家具を持ち込み、古墳内部のような寝室をつくった。毛細血管とも思える根と内臓のようにも見える生殖器である花が鬱蒼と天井から垂れ下がり、虫が蠢く様は、物質的にはペラペラでありながら、ボリュームによって妙なリアリティをつくり出し、むわっとした「生/性」が充満する空間である。
ついさっきまで今村が寝ていたかのような布団の跡と布団に頭を突っ込んでお尻を出しているぬいぐるみ、その不在のベッドは、それらの「生/性」によって、自分の肉体が虫や微生物によって分解され土に還ることを、体験するように想像させる。ベッドはまた、人間社会を生きる人間ではなく、自然界の生命循環の一部の存在として、土に包み込まれる温かさとおぞましさを抱かせる、一晩の夢のようである。
壁から床までつくり込まれた室内に対し、板が剥き出しの外壁は、ドラマや映画の舞台セットを想起させる。それは一時性を強調し、人の一生は、人類の営みは、自然界の時間軸で考えると、映画のワンシーンのように短いものであるかのようである。植物が大いに茂った室内と、部屋の外に置かれた、室内の繁茂さに比べると控えめに植物が生えたクローゼットや机、その内と外とが入れ子状になった空間は、自然の力と人間の力の拮抗であり、人間の力の脆弱性が表出する。
人と花や虫との関係を通してみる今村の世界は、様々な時間軸が交差し、夢と現実、生と死が溶け込んだ混沌とし土壌であり、アスファルトを生きる人間ではなく土の中に循環する生物としての人間が映し出されている。