見えるものと見えないものの風景
風景画の誕生をどこに見定めるかについては、いまなお議論がある。というよりも、何を「風景画」と呼ぶのかという定義の不安定さに応じて、複数の誕生がある。人物の背景をなす美麗な風景ならば、古代や中世の作例にも数多く認めることができる。
画中に人物が不在でありさえすれば、たとえ家屋や家畜が描かれ人の気配が濃密であったとしても、風景画としてしまってよいだろうか。あるいはそのようなデジタルな判断はやめて、画中の風景と人物とのあいだに主従の関係を認めさえすればよしとすべきだろうか(しかしこれではまるで引用の要件だ)。はたまた、風景が建物や窓枠などに切り取られることなく画面の端にまで広がっていることをもって、風景画とするのはどうだろう。
この無限定なフィールドとしての風景画という定義は、タブローから額縁が取り去られて、画面と現実空間がほとんど地続きとなった現代においては、より説得力を持つかもしれない。たとえこの定義の先に、フリードリヒやターナーら北方のロマン主義の画家が手がけた風景の巨大で曖昧なさまを起源と措定することで、ニューマンやロスコら戦後アメリカの抽象絵画でさえも無限定性と対峙する崇高な風景画とみなす、美術史家ローゼンブラムの魅力的な飛躍が待っているのだとしても。
「風景画論」と名付けられた吉本作次のこの展示において、荒れ模様の空や夕立ちを予感させる雲が、いたるところで渦を巻いている。ジョルジョーネ、アルトドルファー、エルスハイマー、プッサン、コロー。風景画史に足跡を残す数々の古典を、吉本は大胆にトリミングしたり背景を大きく拡張したりしながら、画中の人物と風景との比重を後者へと大きく傾けていく。
吉本がこれらの風景画の多くに縦長のフォーマットを採用しているのは、たとえばDTP(デスクトップパブリッシング)における文書の向きを示すportrait(縦長の)とlandscape(横長の)という語がそれぞれ絵画ジャンルの名に由来していることを思い起こせば、奇妙に見えるかもしれない。だが、ここで吉本が執心しているのが、人物よりはるかに高く聳え立つ樹々の葉叢であろうことは一見して明らかだ。前景で繰り広げられる物語を背後から包み込む巨大な樹木の全体を画面に収めようとすれば、画面は必然的に上方へと伸びてゆく。
風景画の歴史において、樹木一本一本の表現に特別な関心が払われるようになったのは、それほど昔のことではない。少なくとも19世紀に入るまでの樹木表現において、身の回りで観察した自然を見たままに再現したり、樹種を描き分けたりすることに意味が見出されることはほとんどなかった。描かれた風景とは、視覚的な再現ではなく、時代や地域ごとに類型化を免れ得ない概念的な産物である。そもそも自然からではなく過去の絵画から出発した吉本の樹木は、それをさらに不自然なパターンへと推し進める。
幹や枝を芯に、一定の粘度を持った液体がミルククラウンを形成するかのように、葉叢がまとわりつく。このような葉叢の表現は、周囲の雲や水の渦と溶け合いながらあらゆるものが液状化して混濁した画面を生み出すいっぽうで、まさにそのことによって、大気の動きという不可視なものに輪郭線を与えて分節化することを可能にしてもいる。あるいは1980年代にニュー・ペインティングの寵児であった吉本の、イメージを形成し損ね続ける過剰にペインタリーな筆致のように混濁した風景は、クレーを想起させる油彩転写技法の震える線によって、かろうじて抑え込まれているとも言える。
アトリビュートさえ見分けられればよいとでも言いたげな、スマイリーフェイスのように単純化された人物たちは、背後で繰り広げられている液状化現象にまったく気がついていない。与えられた役割を演じ続ける人形のような彼らだけが、混濁する風景に飲み込まれずに自我を保ち続けることができている。
風景画というものが当初そうであったように、吉本の風景画もまた物語の背景という二次的なものであり続けている。人物なくして風景は成立しない、というこの逆説のなかで、しかし彼らは自らが置かれている場所を顧みることはあっても、「風景」を見ることは決してない。
フランス語の「Païsage」という画家たちの間でだけ通用する専門用語が、それまで絵画における自然の景観を表すのに用いられていた地方や田舎を指す語に取って代わったのは、16世紀半ばのことである。そして、この語が絵画の世界から解放され風景一般を指すようになるには、それから1世紀半を隔てた17世紀末を待たなければならない。
「風景」は、その誕生からそもそもピクチャレスクであった。絵画を通してしかわれわれは風景を見ることができないのだとすれば、絵画の中に囚われている人物たちにはそれが見えないのも、道理なのである。