肉体なきダンスへと導くもの
広島芸術センターで開催された、うらあやかの個展「私はそれを“ダンスの素子”と名付ける。」は、ダンスを表現の媒体や手段とするにも増して、それ自体をモチーフとして展開することの可能性を示すものであった。
この展覧会は、うらあやかが近年行ってきた、観客の身体的関与を基軸とした表現をまとめたパート、および、そうした表現に通底する彼女の関心を反映させたインスタレーション作品を中心としたパートから構成されている。
前者では、過去のパフォーマンスで用いられた、観客の関与を促すインストラクションや覚え書きといったテキストの記されたプリントが会場内に配置され、脇のモニターではワークショップの様子を収めた映像が流されている。これらは一見、過去のワークショップ形式の表現に関するドキュメンテーションのようでありながら(実際そうした役割も果たしている)、紙片をかがんで拾い上げる、モニターを見下ろし凝視するといった、来場者のその場での振る舞いが、作家により導かれた身体的関与として次第に意識されていく場ともなっている。
いっぽう後者のパートでは、より個々の独立性が高い映像とインスタレーション作品が混在する。会場に立ついかにも不安定な三脚には小型のモニターが据えられており、ミミズが路上でのたうちまわり、自らの躰を分離させる様子が繰り返し映し出されている。そこに重ねられた音声は、詳細まで明瞭には聞き取りにくいものの、それが魂と肉体の関係について述べあう会話の一部であるらしいことがうかがえる。あるいは、壁面に目をやると、大きく口を開けた人物の口腔が大映しにされている。スロー再生される映像をしばらく見つめていると、とうてい意図したとは思えない舌の微細で不連続な動きを目にすることになる。
そして、別の壁面には銀色の文字がステンシルで記された作品が配されており、そこには「(欠落した存在感がありありとしている)」とある。この文言は、土方巽の舞踏について論じられた言葉(欠落した存在感)と、詩人・おさないひかりが自身の詩集のなかで、亡き人との関係性について綴った言葉(ありありとしている)とを、作家が組み合わせたものだという。うら自身が、現在に連なる表現、つまりダンスに関わりながら、ダンスを主題として追求する表現を始めた契機には、あるダンサーとの死別があったという。そして、肉体なき存在のダンス、なるものの現出を志向することが彼女の表現を導いてきたとするならば、ここに綴られた言葉がひときわ重要なものであることが理解できる。この一文は本展DMの裏面にも象徴的に刷り込まれており、いっぽうの表面に表示された展覧会タイトルが指し示す、ダンスをメタレベルでとらえようとする彼女の姿勢と、文字どおり表裏の関係にあるといってよい。
つまり、1960年代のミニマルなパフォーマンスを思わせる、日常のなかにある身体的振る舞いをダンスとしてとらえ返す視点や、演劇のワークショップを連想させる、互いに相手の動きをトレースし続けるという、他者を演じることによる関係構築といった、コンセプチュアルな実践は、ことごとく、彼女にとって失われた身体の存在を回復させる、認識に関わる行為としてのダンスへと向けられた希望が裏書きされたものだと言えるのではないか。
この願望をひとつのたよりとして、「私はそれを“ダンスの素子”と名付ける。」と題された展覧会において、一見多様に展開された「それ」を収斂させていくことが可能であるように思われる。本人が「鋳型の雄—雌の間でどうしても発生するバリのようなもの」と形容し、待望する事態とは、指示の伝達としてのコレオグラフィーの破れであり、コントロールの範疇を超えた、揺らぎとしての身体の振る舞いである。
そして、例えば第1の空間で例示されたインストラクション、第2の空間では舌に負わされた過剰な負荷とは、そうしたバリのようなものを誘発するための与件とみなすことができる。このようにして彼女は、ダンスならざるダンス、そのようなものとしての意図されざる/意識されざる振る舞いを梃子として、振り付けなき動き、肉体の活性化を伴わないダンス、さらには不在の肉体のダンス、というところにまで一気に「振り付け」を到達させようとしているかのようだ。
ところで、会場となった広島芸術センターは、広島を拠点に活動する若手作家たちが集い運営する、数少ないアーティスト・ラン・スペースのひとつであり、その大仰な名称に比して控えめな施設でありながらも、近年の若手作家の活動や、様々なネットワークを垣間見ることのできる重要なスペースである。多くは運営メンバーの展示が中心となるも、時折今回のように異なる拠点の作家を招いて展覧会が開催される。死を思う場所としての平和記念公園からもそう遠くはない立地の会場で、不在の人々を想起することと芸術表現の接点という、敏感に反応することが困難なほど繰り返される題目に関して、本質に通じるかに見える表現に思いがけず出合ってしまう。本展は、そうした不意打ちを被ったような体験であった。