無底の瑛九
埼玉県立美術館で開催されている「MOMASコレクション 第4期」は、瑛九の仕事を振り返る小規模な企画である。この企画では、併せて瑛九の友人であり瑛九の伝記を著した山田光春の作品や資料も展示されている。
本企画では、小規模ながら瑛九の仕事の多様性の一端を垣間見ることができる。瑛九は、コラージュ、ガラス絵、フォトデッサン、版画、そして晩年の点描による抽象絵画などの多面的な仕事を残した。周囲の作家たちからは天才と呼ばれながらも、同時に日本の画壇の無理解に苦しみ続けた画家でもある。
瑛九という名はもちろん本名ではない。彼は16歳で美術批評家としてデビューし、1936年に瑛九の名義によるフォトデッサン集『眠りの理由』で美術家として出発した。その後押しをしたのは長谷川三郎と外山卯三郎である。初めて瑛九のフォトデッサンを見た長谷川は瑛九の可能性を見抜き、積極的な支援を惜しまなかった。瑛九と長谷川は、フォトグラムによるその技法を、あえてフォトデッサンと命名した。だが、瑛九のフォトデッサンをめぐる評価は、マン・レイのレイヨグラフなど、類似した技法を使った西洋の先行者たちの仕事を追随したものであるという無理解に付きまとわれることになる。瑛九は自身のフォトデッサンに繰り返される、そのような批評家たちの評価に失望していた。
瑛九のフォトデッサンは、単純にその技法的な側面からだけ見ても、マン・レイらのフォトグラムとは異質である。フォトデッサンには物体や写真原版だけではなく、様々な形象に切り取られた型紙が使われているからだ。このフィギュラティヴな型紙の存在こそが、瑛九のフォトデッサンをきわめてユニークなものにしている。また、驚くべきことに瑛九は一度完成したフォトデッサンを切り抜き新たな型紙として使用することもあった。フォトデッサンではそれらのイメージが複雑精妙に組み合わされ、彼が言うように「女の顔もガイコツの写真も、オドリ子のカゲ絵も出現する(*1)」。スケールも質も異なる諸要素が光によって染められた織物のように互いに重なりあい、連続、融合する(瑛九はフォトデッサンを「ヒカリ染め」とも呼んだ)。こうしたいくつかの要素が可視的な透過性を持つフォトデッサンには、いくつもの層(レイヤー)がある、というよりも、むしろ層の区分自体を無効にしていると言ったほうが適当かもしれない。
瑛九のフォトデッサンの重要な特質は、イメージが混乱、錯綜しきることなく、白と黒からなる明確な明度の差をもち続けている点だろう。あるイメージの輪郭は、白と黒の世界に棲み分けられ、それぞれに異なるイメージを「同時に」生起させる。瑛九は、この効果の出現を、フォトデッサンの多くの作品において試みている。そのとき、ひとつのかたち=輪郭は、白と黒の異なる世界において、複数のかたち=輪郭を共有することになる。例えば、白い身体のシルエットの一部は、黒の位相に注目すれば巨大な熊の手のようなシルエットの一部でもある、というように。私たちの知覚が黒と白のどちらの位相に注目するかによってイメージは複数の体系に分岐する。
今展の出品作ではないが、瑛九のフォトデッサンに《会話》(1951)という作品がある。黒いシルエットと白いシルエットの人間、ふたりの人間の横顔は、たったひとつの波打つ線によって成立する。彼らは同じ輪郭を共有し、互いに抱擁、接吻し、会話し合っているように見える。だが、両者は知覚的にも統合できない、異なる世界に属している。彼らは、遭遇しながらすれ違う。写真であるフォトグラムの宿命として、すべての形象は物理的な高低差を持たない印画紙の滑らかな表面において連続している。だが、異なるイメージたちは、滑らかな一枚の印画紙の表面を共有しながら、いまだ出会わぬ他者としてある。
フォトデッサンの重要性は、この白と黒(ネガとポジ)からなる世界において、通常の図(figure)と地(ground)の絵画的な区分を無効化するように、あるいは光も闇もともに救い上げるように、複数の図=形象のみからなる世界が同時に立ち上がる点にあるだろう。瑛九のフォトデッサンでは、あるもののかたちは、それと隣り合う、あるいは反転対応する、位相の異なる世界で自分がまったく異なるイメージであることを知らないかのようにふるまう。
おそらく、瑛九のフォトデッサン集のタイトルがシュルレアリスムを思わせる『眠りの理由』であることは、このような技法的特性にもよるだろう。この世では人間のかたちをした私は、さかさまの世界では熊の手なのかもしれない。イメージは、個別の輪郭を超え、溢れ出す意識を通じて複数の世界へと逃れ出ていく。それは、私たち自身の、いつのまにか外部へと逃れ出す、無軌道な逸脱と飛躍に満ちた知能、意識のありかたによく似ている。型紙を使用した瑛九のフォトデッサンの特殊性は、この次々と転移するイメージの、反転可能性、重層性が、光学的な感光現象として多重かつ同時に立ち上がるという奇跡的瞬間に集約されていた。このような作品はほかに類例がない。長谷川が驚愕したのも無理はなかった。
このように考えれば、可変的にさまざまなイメージが生起する瑛九のフォトデッサンが、旧来的な図と地の区分を維持したマン・レイのレイヨグラムとは似て非なるものであることは明らかだろう。写真印画紙の上にオブジェを配したマン・レイのレイヨグラムは、厳然とした基底面の存在が前提として存在する。しかし、異種の図=形象が同時に立ち上がる瑛九のフォトデッサンには、基底面となるべき底が存在しないかのようだ。
瑛九は、エスペラント語を習得したコスモポリタンであった。国際共通語としてつくられたエスペラントは、異なる出自を持つ、まだ見ぬ他者が出会う共通のプラットフォームとして構想された。宮沢賢治や民本主義を唱えた吉野作造らがエスペランティストであったことが示すように、エスペラントを習得することは、思想的選択だった。とすれば、瑛九のフォトデッサンにおける印画紙の支持体とは、まさにそのような遭遇可能性に賭けられたものとしてあったということだ。絵画内に生じるこの特異な出来事は、共産主義、エスペラント、デモクラート美術協会の設立における民主主義活動、子供たちの美術教育への関心といった、瑛九自身の一連の思想的背景、運動と共鳴している。それは、世界の階層秩序をいったん無効化、脱構成し、新たな連合関係を築き上げることだ。彼のフォトデッサンを見ることとは、無効化された階層秩序のなかでその都度生成し崩壊していく表象体系の流動性を経験し、そこに微かな希望を見出すことにほかならなかった。
同じことは、フォトデッサンと同じく型紙をつかったエアコンプレッサーによる吹き付けの絵画や、彼が晩年に取り組んだ抽象絵画にもいえるだろう。エアコンプレッサーによって紙の表面に吹き付けられた絵具の粒子の群れは、型紙によって特定のかたちをなすが、それは次の瞬間ほかの粒子群と混じり合い、新たなイメージの連関をつくり上げていく。そして、ポスト印象派のスーラなどの点描を参照したと言われる瑛九の抽象絵画における点描は、いっぽうでスーラの筆触分割の厳格さを採用せず、個々の点がときに重なりあい、さらには無数の粒子が複数の集合体を形成している。
例えば今展は、「特別展示:瑛九の部屋」として、瑛九の重要作《田園》(1959)が暗室に展示され、鑑賞者が照明をコントロールしながら見ることができるというものであった。実際に筆者も操作してみたが、そこでも瑛九の点描に現れる、粒子たちの凝集と離散からなる運動への志向は明らかだった。
瑛九のフォトデッサン、吹き付け、エッチング、ガラス絵、そして点描による抽象は、このような基底面なき世界であり、異種の図=粒子同士が交流することによってはじめて成立する底のない世界の描像である。その絵画においては、特定の局所的な知覚、認識枠に情報が収束せず、見るたびごとに、その都度新たな経験が生成される。それは、地面(ground)を欠いた、無数の粒子が決して着地=固定されることのない絵画だ。その仕事の全容を明らかにするためにも、今後、大規模な回顧展が開催されることを切に望む。
*1ーー杉田秀夫「フオトグラムの自由な制作のために」『フォトタイムス』第七巻第八号、1930年8月、1173頁