キャラクターの愛らしい姿と奥深い物語で人々を魅了してきた「ムーミン」。フィンランドを代表する芸術家、トーベ・ヤンソン(1914〜2001)が生み出したムーミンの多彩な魅力を約500点に及ぶ作品や資料で体験できる展覧会「ムーミン展 THE ART AND THE STORY」が4月9日、森アーツセンターギャラリーで開幕した。
フィンランド・タンペレ市にある世界で唯一の「ムーミン美術館」から選りすぐりの作品が集まる本展は、「ムーミン谷の物語」「ムーミンの誕生」「絵本になったムーミン」などの7章からなる。
まず来場者を迎えるのは、私たちが見慣れたムーミンとは異なる、細長い耳、などを持つムーミントロールの最初期の原画だ。ムーミンの物語は、ムーミンパパが行方不明になり、ムーミンママとムーミントロールがいくつもの危機に遭遇する場面が描かれる1945年の作品『小さなトロールと大きな洪水』からスタートする。
ムーミンの初期作について、ムーミン美術館学芸員のヴィルピ・ニッカリは次のように話す。「第二次世界大戦中に執筆された『小さなトロールと大きな洪水』の背景にあるのは、人々の戦争への不安。この物語をはじめとしたムーミンの初期作には、牧歌的な生活と、洪水や彗星の接近などの災害が差し迫る恐怖という2つの要素が交差する描写が目立ちます」。
そうした戦争の影が消えるのは、48年の『たのしいムーミン一家』以降のこと。『たのしいムーミン一家』はこれまで38ヶ国語に翻訳され、ムーミンシリーズの人気作のひとつとして知られる。
その後『ムーミンパパの思い出』『ムーミン谷の夏まつり』などを発表したヤンソンだが、小説としてのムーミンシリーズ最後の著作となったのが、70年の『ムーミン谷の十一月』。本作に漂う物悲しさは、「ヤンソンの母が逝去したことも関係しているかもしれません」とニッカリは解説する。
1914年、彫刻家の父と挿絵画家の母のもと、フィンランドに生まれたトーベ・ヤンソン。画家を志したヤンソンが、ムーミンを生み出すことになったふたつのきっかけは2章「ムーミンの誕生」で説明される。
きっかけのひとつは、スウェーデン留学中に叔父から聞いた、首筋に冷たい息を吹きかける「ムーミントロール」というおばけの話。もうひとつは、弟との喧嘩をきっかけに、ヤンソンが群島地域の家の野外トイレの壁に描いた、怒った顔の生き物「スノーク」。大きな鼻が特徴の「スノーク」は、ヤンソンやその母が表紙や挿絵を手がけた風刺雑誌『ガルム』の片隅にも現れるようになる。
いっぽう、風刺雑誌『ガルム』『ルシフェル』で、政治的な挿絵を数々描いたヤンソン。生涯にわたりつつましく生活をし、自然と海を好み、フィンランドにおいて同性のパートナーの存在を公にした第一人者ともされるヤンソンを、ニッカリは「勇敢な人」と言い表す。
44年、戦争が集結する直前に念願だったアトリエを手に入れたヤンソンは、ヘルシンキ港の風景を望むこのアトリエで、2001年に亡くなるまで多様な仕事を手がけた。また、アトリエと並び大切な場所となったのが、フィンランド南部にある孤島、クルーヴ島。ヤンソンはここで、パートナーのトゥーリッキ・ピエティラとともに小屋を建て、91年までは毎夏をそこで過ごしたとという。第3章「トーベ・ヤンソンの創作の場所」では、ふたりが夢中になったムーミンの立体模型作品の《ムーミン屋敷》、残されたスケッチや表紙、挿絵の仕事を紹介する。
ところで、ムーミンはフィンランドではなく、イギリスでその人気に火がついたことをご存知だろうか。スウェーデン語で書かれたムーミンの小説は、イギリス、アメリカで英語版として翻訳出版され、まずイギリスで人気に。その高い評価は、ロンドンの新聞社の夕刊紙『イヴニング・ニューズ』での連載につながり、ムーミンの人気は世界へと広がっていった。
そして連載スタートの翌年55年には既刊のムーミン小説がようやくフィンランド語へ翻訳され、本国フィンランドでの認知度も高まっていく。本展では、ヤンソン自らが監修、デザインした初期のムーミングッズをはじめ、現在もグッズを制作しているフィンレイソン、アラビアなどのプロダクトも展示される。
なお、日本でムーミンが紹介されたのは64年の日本語版小説『ムーミン谷の冬』が初。その人気は、日本オリジナルのテレビアニメへとつながり、いまにつながる人気キャラクターの殿堂入りを果たした。第7章「日本とトーベとムーミン」では、ヤンソンと日本の関わりに注目。浮世絵とヤンソンの作品を並置したコーナーからは、両者を結ぶユニークな共通点を見出すことができるだろう。
戦争や厳しい現実世界に向き合いながら、争いや暴力もない、人生の祝福を描いたヤンソン。ムーミンの魅力、ヤンソンの哲学や精神に触れることのできる本展は、ファンならずとも楽しめる展覧会だ。