固定概念を覆された長沢節との出会い
──沖さんは現在、刺繍を主な表現方法として作品を制作していますが、出身は長沢節が創設した美術学校「セツモードセミナー」なんですよね。現在の表現のルーツはここにあるのだと思いますが、何を学ばれたのでしょうか。
長沢節さんというすごいオーラを纏った方に出会った、ということにとても意味があったと思いますが、セツモードセミナー(以下、セツ)は本当に純粋に絵を描く場所でした。そこでサササッと自由な筆致でひたすらクロッキーをするんですね。20分一区切りで、午前部と午後部の時間内で。
「節先生みたいに描きたい!」って思う人もいれば、もうとにかく自分の世界に没頭する人もいて、ただただ絵を描くという時間の中に、自分を泳がせるっていう場所だったんですよね。
(節先生は)ファッションイラストとして名を馳せた方なので、ファッションスクールというように見られているかもしれませんが、実は節先生の醸し出す文化に触れ、絵をひたすら描く場所。いわゆるアカデミックな教育を受けた人が、そうではない何かを求めて来る場所でもあったと私は思います。
──沖さんもそこでひたすら絵を描いたのですか?
描きましたね。静物や人体、それに水彩画なんかも描きました。スケッチ旅行があって、千葉・大原の漁港に行って描いたりしましたね。絵を描いた後は批評会があるんですよ。並べてある生徒の作品を見て、節先生が「エー!」って言うんですよ。それは「A」のことなんです(笑)。いわゆる「上手い絵」 には 「オマエは上野の美術学校に行ったほうがいいな」などと仰っていました。
「セツらしい絵」があったようですが、私は本当にのびのび自由に描けている人が「A」と言ってもらっていたような気がします。オリジナルで、人のことを気にしないで自分の世界に入り込んでいる人。自分に染み付いてしまっている「こうしなければいけない」っていう固定概念に気付かされるような場所でもありました。
──そもそもセツモードセミナーに進んだ動機はなんだったのでしょうか? セツモードセミナーといえばイラストレーターやファッション関係を志望する方が多いような気がします。
純粋に絵を描く場所に身を置きたいって思ったんです。実は美術大学を目指して予備校に行って、デッサンに明け暮れていた10代があった。でも全然楽しくなくて……。なんでやりたいことやるのにこんな辛い思いをしなきゃいけないんだろうって。油絵科に行きたかったので、油絵も予備校の先生に褒められるような絵を描いていました。結局、受験を挫折して、行っていないんです。
けれどずっと「絵が描きたい!」って思っていた。それで20代半ばにセツに入学したんです。セツの人気がすごくあるときで、1年目は抽選で落ちて、2年目でようやく入れてもらえた。長沢節さんに初めてお会いしたときに、「とにかくこの先生のところに行きたい」って思いましたね。
──絵を描くのは子供の頃から好きだったのですか
絵が大好きだったというか、絵しか能がなかったというか。学校の勉強も嫌いでしたし。兄と姉がいて、二人とも勉強好きだったんですけど、私は図工だけ5で、あとはもう惨憺たるものでしたね。ただ幸せだったのは、両親も「絵がそんなに好きならそれでなにかできたらいいよね」ってずっと言ってくれていたことです。「藝大に行くといいよ」と言われて「私は上野に行くんだ!」って思い込んだ(笑)。いまでも上野のあの奥の森に行くだけで「ああ、いいなあ……いまからでも行けないかなあ」って思うくらい、憧れがありますね。
仕事の反動と作品制作への欲求
──沖さんがアーティストとしてデビューしたのは40歳を目前にした頃ですよね。セツモードセミナーを卒業されてからは就職の道に進んだのですか?
はい。私はそのとき子供を一人で育てなきゃいけない状況で、経済的な事情もあって商品企画会社に就職しました。当時はバブル崩壊の直後で求人がすごく少なくて。未就学育児中で、フルタイムの就職をさがすのはとても難しかったのを覚えています。でも、入社した会社にはいろいろ理解してもらって、結局子供が高校を卒業して、大学に入るまで在籍していました。すごくお世話になりましたね。
──それは例えばいまの作品に繋がるような、ファッションやデザイン系の商品企画ですか?
それが全然違うんです。玩具関係で、お菓子のパッケージだとかそういうのをデザインして、デザインが採用されたら、原価計算して、製品納品まで見るという。当時はイベントがすごくて、バレンタインとか母の日とか記念日マーケティングの時代。だからその需要がとてもあったんです。その度にパッケージを考えて、販促品まで全部考える。そのときはやりがいはありましたね。自分のデザインがプランタン銀座とか三越とかに並ぶので、見に行ってホクホクしていました。けれど、とても理不尽な理由で企画が決まらないこともあった。
そんなとき、仕事の反動で「作品をつくる人になりたい」という思いがマグマのように湧いてきました。それで初めてチャレンジしたのが(だいぶ経ってからですけど)、スパイラルで2002年に行われた第3回「SICF」(スパイラル・インディペンデント・クリエイターズ・フェスティバル)なんです。いちおう会社に「私こういうの応募して、もし通ったら出ますけどいいですか?」と聞いたら快諾してくれて。
SICFはブースが与えられるので、そこで家を再現したんです。当時、ちょうど自分の家を建てているときで、家づくりが楽しくて仕方がなかった。家の中を、自分があたかもアーティストになったかのように、つくっていたんですね。それでSICFでは「自分のアトリエを再現したい」という提案をしたんです。
──アトリエということは、そこに展示する作品も必要になってきますね。
はい。その当時、亡くなった母の洋裁の布や洋裁道具を引き取っていたんですね。本当は母の遺品ってなかなか手が出せないんですけど、娘が(そのとき中学に上がりたてだったかな)私の誕生日に内緒で、母がとても大事にしていた古いリバティの布を切って、手提げをつくってくれたことがあったんです。ザックザクの刺繍がしてあって、私は最初ショックを受けたんです。でも、私をただ喜ばせたい一心でつくられたものが嬉しかったし、「つくるものってこれだ!」と思ったんです。
節先生が「エー!」といったような気分。本当につくるっていうその気持ちだけでできているものって、すごいなと思って。それで「これをやろう」と思いました。私も母の布を使って、手当たりしだい手提げや娘が着る服とかを思うままにつくったんです。それで先ほど言ったアトリエを段ボールでできるだけ再現して、ブースをつくりました。
デザインとアート、二つに分かれた道
──そのときにはまだ現在のような刺繍はやったことがなかった?
全然やっていませんでした。ただ「ものをつくりたい」「思ったようにつくりたい」っていう思いだけでできていた。だからすごく楽しかったです。
──SICFへの参加が2002年で、「shiseido art egg」が2017年。その間の活動をお聞かせください。
SICFのすぐ後にROCKET主宰の藤本やすしさんにSICFの写真を見ていただいて、個展をすることになったんです。やっぱり自分のアトリエを空間に再現するっていうのをやって。当時はまだ会社勤めをしていたので、「作品を売らなきゃ」という感覚もなくて、楽しんでものづくりをしていました。でもその後、「私この先どうするんだろう」って思ったときに、だんだん商売っ気が頭の中にもたげてきて。
会社に通勤しているときに、電車の中でいろんな人のことボーッと見てるじゃないですか。そうすると、男性のネクタイがすごく気になったんですね。「出る杭は打たれる」という言葉がありますけど、ほとんどの人が「私は決して杭を出しておりません」っていう感じでネクタイしているような気がしてもったいないなと。
それで、ネクタイをつくろうと思ったんです。でもどうやってつくるかもわからない。インターネットで調べたら、埼玉の川越にネクタイのオーダーを受けている工場があるっていうのがわかって。もう突撃しちゃったんです。電話だけして。そしたらそこの社長さんが面白い方で。「あんた面白いこと考えるね。森英恵さんもミシン一台で始めたんだから絶対大丈夫だよ」って。そのときにネクタイのつくり方を全部教えてくださったんです。それで母の生地を使ってネクタイをつくり始めたんです。
──それは売るためのネクタイですか?
ネクタイをただ縫ってもしょうがないので、めくると自分の顔が見える鏡つけたりとか、ネクタイピンをいっぱい挿したみたいな刺繍をしたりとか、ネクタイのスペースを土台として、自分のアート表現の場にしました。
ただ、「このデザインで20本」とか注文が来たりするともうお手上げなので、川越の社長さんに、生地を送って土台だけつくってもらって、刺繍を私がやるっていう感じでした。
扱ってくれる場も増えて、コンスタントに注文ももらえるようになってきたのですが、こなしているうちに次第に辛くなってきてしまった。
というのも、そういう服飾雑貨は素晴らしいものをつくる人がどんどん出てくるなかで、私はどちらかというと出来上がってきたネクタイにいろいろ考えて、自分で表現する(画用紙に絵を描く)ようなもの。そちらはすごく生き生きできたんですけど、構築していくものには楽しみが見出せなかったんです。まさに出る杭を自分で打っているような感じでした。
──プロダクトデザインとアートの違いですね。
そうなんです。服飾学校に行かなきゃだめかなと思ったくらい。道は二つにはっきり分かれてるなって思いました。デザインかアートか。食べていけるのはデザインかもしれないと思いました。ちゃんとプロダクトのシステムを自分で考えて......。そういうこと考えるのは不得手ではなかったから、わりとできるなと思った。アートのほうはまったく見えない。ただ自分だけが頼り。そのタイミングで娘が大学を卒業して、一人暮らしを始めたんです。
ずっと二人で生活してきたので、彼女が私の暮らしの中からいなくなることで、精神的にものすごく大きな変化があった。一瞬の出来事だったんですけど、考えてもみなかったような大きな穴が空いた感じ。でもそれは「次へ行け!」というサインでもあったと思うんです。もう絶対自分自身でいなければならない。「あとはもう私自身の人生だ」と思ったんです。
私は“混ざりたい”
──デザインかアートか迷っていたときに一人の生活へと環境が変化した。作品にも変化がありましたか?
一人でものをつくっていたりすると、一人で生きている人と出会うんですよね。2〜3年の間に私がそれまで全然知らなかった世界の、とにかく面白い人たちと出会いました。そうすると、もっともっと自分が何者かを出さなければつまらないなと思えてきた。それまで小物をつくっていた私に、作品を残していきたいという欲望が芽生えてきたんです。古いものを扱っている人から、布には物語があるんだから、それに仕事をしてみたらどうだという話を聞いた。それからボロとか古い布との出会いがあったんです。
ボロというものは、貧しかった暮らしの象徴でもあるのでたいていの家は出してくれないのだそうです。その方は東北の家を何十年も前から一軒一軒まわって、おばあさんの話を聞いたりして気持ちが通じたうえでようやく譲ってもらえたのだと聞きました。
布はすごく貴重なものだから、破れたら繕って繕って、これ以上繕えなくなったら、ボロをつなげて寒い時に床に引く。最後は雑巾にするんだっていうのを聞いていると、端切れでもおろそかにできない。私の先祖は東北ではないですけど、日本人は農耕民族だったわけだから、何か脈々としたものも感じました。心象風景というかそういうものを探しながら、ものをつくる道にどんどん進んでいった感じがあります。
──その布に蓄積された時間とか物語に惹かれていくんですね。そういったボロや古い布に、沖さんが刺繍を施して作品化していく。どういう思いを抱きながら糸を通していくのでしょうか? 下絵も描かない?
下絵を描いて、きちんとできてる刺繍の作品は好きなんですけど、私にはできないんです。はみ出してしまうし。たぶん決められた線の通りに何かするっていうことが難しいんです。したくないというか。私にとっては、針に通した糸で何かするというのは、皆さんが鉛筆で絵を描くのと同じだと思うんです。(下絵があると)鉛筆で絵を描くときに、下に薄い線が引いてあって絵を描くのと同じような感覚になってしまう。下絵に決められてしまうので「上手に刺さなきゃ」というような感じになっちゃうじゃないですか。そうすると、かつて私が払拭したくてたまらなかった「収まりよく生きていたい」みたいな感覚が、また頭をもたげてきてしまう。
そもそもボロはそれだけで美しいと思うので、何もしないのが一番だと最初は思っていたんです。でもそのいっぽうで、私はその布に参加したいんです。その布がそれまで存在した時間がありますよね。どんどん劣化して、縁あって私の前に現れてくれている。ただ「これいいよね」っていうだけでなくて、自分も混ざりたいんです。エゴかもしれませんが、作品にしたいというよりは、混ざりたい。
──混ざりたい?
はい。それをセックスと表する人もいるんですけど、そうではないんです。とてもプラトニック。混ざりたいといっても、当然向こうは抵抗しない。刺させてはくれるんですけど、刺しっぱなしだと”お借りしている”感じがしてしまう。それで私は、昔の人の洗濯みたいに石鹸をつけて洗うんです。洗っていないボロは真っ黒な汁が出たりします。赤い布は色落ちして針目が染まります。そして干すと完成なんです。混ざっているんです。
──古い布と刺繍の繊維同士を物理的に絡ませ、洗うという行為によって積み重なってきた時間に参加する。
とても大切な仕上げです。最後にそれをしたら、自分の針目が古い布に入り込んだな……入れてくれたなみたいな感じがする。布は糸の集積ということも認識します。
私たちは洗濯しますよね。何かこぼしたりすると手洗いする。その手の記憶があるから、「洗う」という行為につながったのかもしれません。
銀座で見せる「月と蛹」
──今回の「shiseido art egg」でもそのような過程を経た作品が展示されるわけですね。どのようなテーマになるのでしょうか。
「月と蛹」というテーマで展示をします。私は夜の間ずっと起きていて、ときどきラジオを聴いています。そこである日、蛹(サナギ)の話を聞いたんです。外皮を成形し終えた蛹は、一部の器官を残してあとはドロドロに溶けてしまうんだそうです。びっくりしました。その蛹が小さな家の中で夜中じゅう手を動かしている自分の姿に重なりました。もうとっくに大人ですが、まだしばらくは羽化せずに神秘の中で蠢いていたい、という気持ちも含んでいます。
また“月”は、昼間の月が現れる頃から明け方に姿を消す時間まで手を動かしているので、窓から月が見える環境ではないのですが、つねに頭の上に月があるような気がしていて、身体のリズムに近い存在。
今の自分を俯瞰して降りてきた言葉を二つあわせ、タイトルにしました。
展示では、いまの私に出来うるかぎりの針目の堆積を見ていただきたいと思います。今年の1月からずっと作品をつくり続け、途中でテーマから離れてしまうかも、という思いもあったのですが、自身の時間と重ねていくうちにやはりこれは「蛹」と確信した。だから今回お見せするのは、蛹の表皮であり、私の皮膚であるという感覚があります。
そして奥の展示室では「伝言」をテーマにした作品を展示します。折れた針や錆びて使えなくなった針を豆腐などの柔らかいものに刺して供養する「針供養」という行事があります。それを何か作品にしたかった。最初は豆腐を展示室に置いて針を刺そうと思ったんです。でもさすがに難しくて、合羽橋の道具街で大きい豆腐のサンプルをつくってもらいました。
いろんな人から、折れた針などを1000本近く集めたんです。針仕事をしてきたのは今も昔も圧倒的に女性たちだった。実際にその針を豆腐を模したものに刺していたときに、唐突に思ったことがあるんです。「これは針を使っていた女性たちからの伝言だ」と。それぞれの針にどんな背景があったのか。もしかしたら作品よりも針のほうが、強い念がこもっているのかもしれません。