アートファンの裾野を広げるデジタル・アーカイヴ
創業から約110年の歴史を持ち、石川県金沢市に本社を構える印刷会社・能登印刷。美術展の図録印刷はもちろん、ジクレーの印刷や音声ガイド事業など美術にまつわる取り組みも複数手がけてきた老舗企業だ。同社が9月に新たなオンライン・ミュージアム・プラットフォーム事業として「MU(ミュー)」を立ち上げた。長年、様々なミュージアムと関係を築いてきた同社が、彼らの抱える「コレクション作品のデジタル・アーカイヴ」という課題に向き合った結果、生まれた取り組みだ。
MUは、全国のミュージアムのコレクション作品をデジタル・アーカイヴとして集約し、一般ユーザーにコンテンツとして紹介していくサービスだ。作品画像の閲覧機能だけでなく、趣向を凝らしたオンライン展覧会や動画などの多様なコンテンツを格納していき、ミュージアムの多様な楽しみ方の提供を目指している。
メインコンテンツは「EXHIBITION」と呼ばれる、MUにアーカイヴされた作品によるオンライン・テーマ展示だ。サイトに加盟しているミュージアムの学芸員がMUのために考えたオリジナル企画展や、リアルで開催した過去の展覧会の再現を見ることができる。今後は、加盟ミュージアム同士が連携した「合同企画展」も公開していく予定だ。
そのなかのひとつ「名画de芸大生」は、大阪芸術大学に通う学生の日常を、パブリックドメインの作品をモチーフにしたパロディ調で紹介している。アートに詳しくない人でも、気軽に名画の自由な読み解きを楽しめるコンテンツとなっている。
また、MUに登録されている膨大な作品は「COLLECTIONS」で検索することが可能。「油彩画」「日本画」といったジャンル別、あるいは制作年代や作品の色調でも検索することができ、美術の専門的な知識がなくても使いやすいように設計されている。
人々に文化芸術を届けるソーシャル・ビジネス
このサービスがどのような背景で企画されたのか、プロジェクトを統率する能登印刷代表取締役・能登健太朗に話を聞いた。
「MUの構想は2年ほど前からありました。日本のミュージアムのほとんどは常設展よりも企画展が注目され、企画展を中心に集客しています。しかし、地方だと企画展でも都会ほど集客できず、かつ企画展は基本的に会期が終わればなくなるので展示の財産が館に残らず、文化が地域に蓄積しません。さらにコロナ禍によって人々の鑑賞機会が減り、ミュージアムは収支面で苦戦を強いられるようになりました。人々の文化度が上がらないと、生活や教育、経済がよくなっていかない。食や茶、工芸など比較的豊かな伝統文化が息づく金沢のような都市でも、美術愛好者は一部に限られ、文化の浸透は課題となっています。日本全体のQOL(Quality of Life)を上げるためには、ミュージアムをより多くの人に親しみやすい存在とし、日常のなかに組み込んで活性化する必要があると考えました」。
人々の文化度を上げる──そのためにMUでは、デジタル・アーカイヴの機能だけでなく、その鑑賞頻度を増やすためのコンテンツづくりや、敷居の低いインターフェイスを心がけることになった。
いっぽうのミュージアムにとっても、このサービスはメリットが大きい。デジタル・アーカイヴが必要とわかっていても、人員不足や業務過多が原因で着手できていない館は少なくない。そこで能登印刷は、コレクション作品のデータをMUに登録・公開設定する作業の代行も手がけることになった。館側はアーカイヴに載せるデータを能登印刷に渡すだけでよく、ミュージアム職員の作業負担を減らすことができる。これにより、MUへの登録を促すのが狙いだ。さらにMUは登録作品を活用したコンテンツも制作することで、コレクションに触れる機会を増やす。ミュージアムにとってのMUは、デジタル・アーカイヴのプラットフォームであるだけでなく、広報プロモーションとしても機能するのだ。
能登は、これらのミュージアムに対するサービスを継続的に無償で行うと言い切る。決して軽くはないこの取り組みだが、どのような思いから生まれたのだろうか。
「私はこのMUの事業を『社会課題に対する解決策』として進める覚悟を持っています。もちろん会社として利益は出したいですが、それは結果論だと思っています。文化が豊かになって人の流れや経済が変わっていけば、きっと循環して自分たちにも還元されるはずです。貧困の人に無担保で融資を行うグラミン銀行を創設したノーベル平和賞受賞者、ムハマド・ユヌスは、利益の最大化と社会的目的のための営み、双方をともにできるはずだと語っています。私たちはMUを、社会貢献と企業利益を両立させるサービスに成長させたいと考えています』」。
作品という情報価値をプロデュース
日本のミュージアムのデジタル化は、コロナ禍を経て急速に進んだ。オンライン・アーカイヴを拡充させ、動画解説をはじめとするオンライン・コンテンツを公開する館はこの2年で増えている。また、国立国会図書館が運営する「ジャパンサーチ」も、書籍・文化財・芸術などの膨大なデータを分野横断的にアーカイヴしている。MUはこうした動きに対して後続のサービスとなるが、差別化のポイントは、登録されたデジタル・アーカイヴを利活用するアウトプットの幅広さにある。
MUの母体である能登印刷は、印刷事業だけでなく様々なサービスを提供している。書籍や印刷物の編集・デザイン、動画やwebサイトの制作、ネット販売の代行など、上流から下流まで、そしてリアルからデジタルまで、じつに幅広い内容を手がける。ただの印刷会社ではなく、「未来をつくる『情報価値プロデュース企業』」という企業ビジョンを掲げ、プロデュース企業としても価値提供しようとしているのだ。
「時代の流れのなかで直面する様々な顧客課題に対しても、私たちは多くの選択肢のなかから最適な企画を提案し、納品まで責任を持って行うことができます。だからこそ伴走者として、顧客と長く信頼関係を築いてこられたのです。そこで私たちはMUを通じても、ミュージアムの伴走者として文化の向上に貢献していきたいと考えています」。
既存のデジタル・アーカイヴがその規模や数に着目するのに対し、MUは集められた素材をいかにコンテンツとして調理するかに重きを置いている。今後、能登印刷の既存事業での経験やノウハウと組み合わさることで、デジタルからリアルへ、そして様々なコンテンツへとアーカイヴが利活用されていくだろう。新型コロナウイルスによって腰の重かったミュージアムのデジタル化が一気に進んだように、今後、どのような変化が社会に訪れるのかはわからない。不確実な時代に、能登印刷のような伴走者がいることは、多くのミュージアムにとって心強いのではないだろうか。