──前編では「黄金町バザール 2016」で発表されたプロジェクト「あなたの傷を教えて下さい。」についてお聞きしましたが、後編では渡辺さんご自身のこれまでを振り返ってうかがいたいと思います。そもそもアーティストを目指そうと思ったのはいつ頃ですか?
中学2年生のときですね。当時NHKで、武蔵野美術大学と多摩美術大学の油絵科の学生が壁画を描いて対決するという放送があって、それぞれの校風が壁画からありありと見えたんです。そこで美術大学の存在を知りました。もともと僕は足が速くて陸上部の部長をやったり、勉強の成績もそこそこ良かったりと、いろいろなことに少しずつ才能があったんです。でも本当に極めたいのはなんだろう、と考えてたどり着いたのが絵画だった。そのときの美術の先生が女子美術大学出身で、美大のことを詳しく教えてもらいました。「授業全部が美術の時間」「就職せずに絵を描いて生活していけるかもしれない」と受け取ってしまいまして。これはいいぞと(笑)。
──絵を描くのは昔から好きだったんですか?
小学1年生の頃からコンクールの賞を総取りして「賞状コレクター」みたいになっていました(笑)。高校では美術部でもないのに、神奈川県の絵画コンクールで優秀賞を受賞したり。
──そして、大学は東京藝術大学を選択。4浪の末、2001年に入学を果たします。
多くの美大予備校は洗脳教育みたいに、藝大に受かることを至上命題としていると思います。僕はその教育にはまって「(藝大に)入らなければいけない」となってしまった。自分の技術や画風や思想を、藝大に受かる人格へと変えていく時間でしたね。だから浪人時代は苦しかった。
──実際に入学してから理想と現実とのギャップはありましたか?
教わることができないんですよ。予備校時代は筆の使い方やキャンバスの張り方を教わりますが、大学では1年生の4月から「作家としての心得を感じ取れ」という空気があり、作品をつくっては講評の繰り返しが始まるんです。すると、それまで受験という目的のある作品をつくってきた自分は、自由に作品をつくることが上手くできなかった。なのに教わることは何もないというような状態。ただ飲み会の席で「作家として態度」のようなものを聞けるコミュニティーに入れてもらった、というのが芸大時代だったのかなと思います。
──渡辺さんは学生時代からひとつのスタイルを極めるのではなく、多種多様な作品を制作してきました。それはなぜでしょう。
今振り返って思うのは、「手先が器用になりたくない」ということですね。4年も浪人すればある程度器用になりますし、そのおかげで合格したような気もするんです。でも、もし「現代美術」の対立軸として「デザイン」や「工芸」があるとするならば、現代美術は思想的であるべきだし、技術の洗練ではないと思っているんです。4浪の末、デッサンも上手になりましたが、それは作品の要素に必要以上に入れるべきではないし、「ちょっと器用なお父さんがDIYでつくれるくらいの作業」をなるべく超えてはいけないと思ってるんです(笑)。
それは会田誠さんの門を叩いてから、彼もおそらく同じだと感じましたし、そこにシンパシーを感じました。彼は時として100円ショップの「ダイソー」で筆や絵具も買う(彼は技法材料研究室に在籍していたので、どの色であれば100円ショップで買っても劣化しないか、ということを分かっています)。 「弘法筆を選ばず」であるべきだということを意識しています。
──これまでたびたび会田誠さんの制作を手伝ってきた渡辺さんにとって、会田さんとの関係性はかなり重要な部分を占めているのではないかと感じます。出会いはいつですか?
東京藝大大学院2年生のときですね。きっかけは『美術手帖』です。当時、会田さんには一度も会ったことがなかったけど、親和性を感じていたんですね。それで『美術手帖』(2008年5月号)の会田誠特集を読んで、「いよいよ会いに行かないとダメだ」と思った。美術家としてよりも、「いちビューワーとしてファン」みたいな意識もあって......。でもイメージが壊れてしまうかもしれないという思いから、実際の会田さんに会うのは怖かったんですよね。それで雑誌の中の「青空座談会」に参加していた会田さんを除くアーティストたち全員に、順に会いに行ったんです。会うのは怖いけど、会田さんの息吹は感じたいという気持ちですね。
でも最終的には会いに行った。そのときポートフォリオを見せたら、僕の作品(《せかい なるほど いじんでん[3]》)をすでに知ってくれていた。それですぐに会田さんの個展(「ワイはミヅマの岩鬼じゃーい!!」、ミヅマアートギャラリー、2008年)の際にアシスタントになったんです。そのあと大学院の修了制作講評会のとき、ミヅマアートギャラリーの三潴さんがゲストで来て、僕がその対応係をやっていたら三潴さんに「(会田誠の)北京での長期滞在制作のアシスタントにならない?」と言われ、距離が縮まっていったんです。
──ファンとして憧れていた会田誠さんと実際に出会い、渡辺さんにはどのような変化がありましたか?
日本の芸道には「守破離」という概念がありますが、それを時間を追って経験しているなと感じますね。(今は)会田さんは冷静に、乗り越えなくてはいけない存在だと思っています。
──引きこもっている間は、会田さんをはじめとするアーティストたちには会わなかった?
深刻な引きこもりの間(7か月半)は誰とも会いませんでしたが、そのあとの約2年では会田さんの森美術館の個展(「天才でごめんなさい」、2012〜13年)を手伝ったりました。それでもやはり7か月半も世間から断絶されていると、それを戻すのに年単位の時間が必要なんですよね。そんなとき、社会は強い人たちで構成されているなと思います。ナイーブだとすぐに弾かれてしまう。でも、アートの世界は自分の究極のエゴを納期までにかたちにする、言い方を変えるととても暴力的なものだし、引きこもりのメンタリティのままではアートはできないと思います。だから今の僕は生まれ変わったんだなと。「引きこもりだってなにかはつくれる」と言いたいけど、実際のアートの現場は(精神的に)とても強い人たちがたくさんいるし、上手くプレゼンテーションできなければ排除されていく。
──渡辺さんが世間から断絶される原因となった引きこもりですが、改めてその要因が何だったのかお聞かせください。
僕は2001年から、9年ほど藝大に在籍していたわけですが、それを終えた半年後から引きこもりになりました。きっかけはいくつかあったのですが、簡単に言うと「居場所がなくなった」ということです。ルーティンワークとしての通う場所がなくなり、自立したアーティストとしてやっていかなくてはならないという不安もありました。プロの美術家へのシフトはスムーズにいかなかった。それと同時に、結婚を約束していた人の裏切りや、渋谷の宮下公園で参加していたホームレス排除への抵抗運動から僕自身が排除されたこと(途中参加してきたフェミニズム運動の人々との軋轢)などがありました。居場所がなくなってしまったんですね。
──先ほど「引きこもりにアートはできない。だから今の僕は生まれ変わった」とおっしゃいました。引きこもりから脱するには大きなエネルギーが必要だったと思いますが、どういうきっかけがあったのでしょうか?
引きこもりを始めて7か月ほど経ったとき、母は僕を「助けたい」という意思をほんの少し見せてくれました。にもかかわらず、結局その後も放置されたままだった。今は理解できるけど、母もクセのある夫や、引きこもってしまった僕のことで疲弊しており、気力がなかったんですよね。でも僕は母に期待し続けた。やがて、「引きこもりが長引けば長引くほど、社会復帰は遠のくのに、なぜそのままにしておくんだ」という母への憤りが募っていきました。そして母が居間にいるとわかったタイミングで、「(引きこもっていた部屋の)扉を無理にでも開ける意思は見せてくれよ」という思いから、実家のドアを蹴破ったんです。「扉はこうやって開けるんだよ!」と。そしたら父に警察を呼ばれ、病院に強制的に入れられそうになった。それが嫌ならば窓から飛び出してホームレスになるしかない、という究極の状況になったんです。引きこもりを維持できなくなった。だったら第3の道として、母に寄り添っていながら生きていこうと。自分ばかりが傷ついていたと思っていたところに、母も傷を負っていたんだと気づいてしまったんですね。だから部屋を出ようと。
引きこもりをやめた日(2011年2月11日)、母と対話し、セルフポートレートを撮りました。僕は部屋の外で生きていく上で、漠然と生きることはできない。部屋の外に出るということは、アーティストとして生きるということだから、引きこもっていた7か月半を生産的な時間としないと、それを背負って生きていけない。界隈のアーティストは7か月半分だけ良い作品をつくって、イキイキと生きているわけで......。だからその時間を、制作時間だったのだということにしようと。髪や髭が伸びたこと、部屋が荒廃したことはこの撮影のために必要な役づくり/場づくりだったんだということに、認識を変えてみようと閃いたんです。その瞬間、アーティストとして生きる強いスイッチが入ったんですよね。
──引きこもりをやめたとき、アーティストにならないという選択肢はなかったんですか?
それはなかったですね。中学時代からの目覚めとして、作品をつくって生きていく以外は選択肢にない。復帰してから引きこもり経験をテーマにした作品をつくりだしたのも、宿命だと思っています。
──今年、「黄金町バザール」に参加するとともに、初めて横浜市芸術文化振興財団の若手芸術家育成助成にも選ばれました。助成を受けて、今後「こういう作品やってみたい」、「どこかで展覧会をやってみたい」などの将来像はありますか?
例えば2年後くらいに海外のレジデンスに行きたいなと思っていて、逆算して英語の勉強をしています。あと、来年の8月の個展のタイミングに間に合うように、作品パンフレットをバイリンガルでつくれたらなとも思っています。
──昔から海外で作品発表をしたいとは思ってたのでしょうか?
現代美術家が日本にずっといるのは無理だろうなって。みんなさほど言わないけど、切実だと思いますよ。日本で作品買ってくれる人は限られてる。名前が挙げられるくらいしかいないじゃないですか。資本を持っているトップアーティストたちが、アシスタントを数百人規模で抱えて、どんどんつくりたいものをつくれるのなら、現状、国際舞台では資本力での闘いだとも言えると思っていて......。それこそ実業家の要素なんかも大事かもと思う。いろいろ逆算して考えていかないと、アーティストはアーティストでいられないと思っています。
──次の作品の構想があればお聞かせください。
例えば3Dプリンターで、自分の実家のかたちをつくって、それを割って壊して直すとか、そういったことを考えています。コンクリートでの立体作品の金継ぎというか......。引きこもりテーマの以前は、1展覧会1テーマ1素材でずっと続けてきましたが、(引きこもり経験をきっかけとした作品は)もうすこし続けてみようかなと思います。だからタイプは全然違うけど、通底してるものはあるというようなインスタレーションのプランとか、映像のプランもいくつかあって、それはふさわしい企画があったときに出していきたいですね。ときには、評価云々は気にせずに、引きこもりを経験した自分だからこそ、つくらざるを得ないものをつくっていきます。
PROFILE
わたなべ・あつし 1978年神奈川県生まれ。2007年東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。2009年東京藝術大学大学院美術研究科絵画専攻(油画)修了。主な展示に2014年「ヨセナベ展」(Art Lab Akiba、東京)、同年「止まった部屋 動き出した家」(NANJO HOUSE、東京)など。