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2016.6.4

「部屋」の外へ。義足のアーティスト・片山真理インタビュー

先天的な足の病気をもって生まれ、義足で生活するアーティスト・片山真理。現代美術や音楽、執筆など、幅広い分野で活動し、森美術館(東京・六本木)で開催中の「六本木クロッシング2016展:僕の身体(からだ)、あなたの声」にも参加している。自身の身体に向き合いながら作品を制作する片山に、制作活動や、これまでの人生について話を聞いた。

片山真理 you're mine #001 2014 ラムダプリント 104.8×162cm 個人蔵 Courtesy of TRAUMARIS
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──この春は、新宿伊勢丹のショウウインドウでの展示、伊藤忠青山アートスクエアでの「MAZEKOZE Art Ⅱ」展、Arts Chiyoda 3331での個展「shadow puppet」、そして森美術館で開催中の「六本木クロッシング2016展」と、4つの展示に参加されています。

4つの展示の共通のキーワードになっているのは、コラージュです。絵画やデザインを専門的に学んだ経験がないことにずっとコンプレックスがあり、コラージュや絵はあまり見せたいと思えなかったんですが、2015年の「3331 Art Fair」でワタリウム美術館のキュレーター・和多利浩一さんに評価していただいて以来、作品として発表しはじめました。今回の展示に出しているものは、立体もコラージュに近い感覚で構成しているものが多いかもしれないですね。

「六本木クロッシング」での展示風景 撮影=永禮 賢 写真提供=森美術館

──確かに、皮などの素材をつぎはぎする手法でつくられた立体作品も、一種のコラージュととらえられますね。

義足を着けて生活している私は、ずっと傷ひとつない「理想的な」身体に、憧れとも愛憎ともつかない感情を抱いてきました。それに対して、自分の身体は「つぎはぎ」ともとれる。こういうものをつくっていることは、それに関係しているのかもしれないと思います。

それから、針と糸があればイメージしたものを一瞬で簡単につくれる布は、最強のツールだと思っています。ものをかたちにしていくうえでも、つぎはぎという方法は自分にとってしっくりくるものなんです。必要な方法を調べたり、いろんな人から教えてもらうのもおもしろいので、ひとつの方法にこだわりたいと思っているわけではないんですけれど。

──片山さんは、自宅をアトリエとして、ご自身がつくったものに囲まれて生活されているそうですが、そういった環境にあったものを美術館やギャラリーの空間で作品として展示することについては、どうとらえていますか?

昔からよく、買ってきた家具などに色を塗ったり絵を描いたりしていたし、コラージュ作品をつくり始めたのも、自分の部屋に飾るため。作品制作はもともとその延長だったんです。

ただ、プライベートな空間のためにつくったものを作品として展示すると、どうしても部屋の中にあるときと「違う存在」になってしまいます。だからいままでは、作品が生まれたそのままの状態を見せたくて、自分の部屋を再現した展示をしたりしていました。でも最近、作品を効果的に見せる方法は他にもあるのではないかと考えるようになって。

「六本木クロッシング」の展示風景。手前が《Thus|Exist-Doll》(2015) 撮影=永禮 賢 写真提供=森美術館

そのきっかけは、今回「六本木クロッシング2016展」に出品している《Thus|Exist-Doll》(2015)。裏に私の背中の写真をプリントしているのですが、それが見えないのはもったいないということで、森美術館の方が鏡を使う展示方法を提案してくださったんです。やってみたら作品がとてもイキイキして見えて、「次のフェーズに行けた!」と感じました。まだまだ勉強中です。

──3331での「Shadow Puppet」展には、いままでの作風とは異なる、物語を感じさせるモノクロ写真のシリーズを出品されました。

ポートレートはカツラを被って撮影。「私、超天然パーマのボサボサ頭なので、いつもウィッグを使っています。義足に慣れているからか、自分のからだじゃないものにも抵抗がないし、この髪の毛が自分の外面として納得しているんです」
撮影=山田岳男

これは、「六本木クロッシング2016展」の搬入が終わって一息ついた頃に、フッと降りてきたアイデアでした。「クロッシング」は、これまでの作品をしっかり見せ、いまのすべてを出し切ったような展示になったので、「Shadow Puppet」で発表するのは「出し切った後に残るもの」にするしかなかった。周囲の反応が気になりましたが、いままでの私のイメージを超えることを目標に、思い切って挑戦しました。

被写体はいままでと同じ自分だけど、笑いの要素もあるストーリー仕立ての作品です。これまではセルフポートレートとしての作品が中心でしたが、カメラを社会に目を向けるためのツールとしてとらえられるようになり、「外」の世界への目線を得ることができたと思います。

今後はショートムービーにも挑戦してみたいですね。これまでのように自分を素材とするにしても、映像を使えばもっと自由な表現ができるはず。今回の作品も、これからにつなげていきたいです。

──改めて、片山さんはどのようなきっかけでアーティスト活動を始められたのでしょうか?

転機は2005年、17歳の時でした。商業高校に通っていたのですが、就職活動のための小論文がどうしても書けなくて。義足に絵を描いているのを見た進路指導の先生が「これについて書いて、応募してみたら?」と勧めてくれたのが、作文で応募できるコンペ「群馬青年ビエンナーレ」。審査を通過して作品を展示することになり、「作品」とは何かもわからないままつくった《足をはかりに》(2005)で、奨励賞をいただきました。

「群馬青年ビエンナーレ」での展示風景。「自分の中でのルールとしてのアルゴリズムを設定することで「世界」を動かしていく、プログラミングを勉強していた私にとっては、制作もある意味、美しいプログラムをつくり出すための『アルゴリズム』だったんです」
画像提供=群馬県立近代美術館

そして、審査員のひとりだったインディペンデント・キュレーターの東谷隆司さんとの出会いが、私の人生を大きく変えることになります。授賞式でお話しして以来、2012年に彼が亡くなるまで、何かつくるたび東谷さんの家に見てもらいに通っていました。

東谷さんは、作品を見せても「うーん、いいね」しか言わないんですけど、女の子で、身体障害者で、ポートレートのようなものをつくっている私が、誤解されたり変な方向にいくことがないようにと、いつも一緒に考えてくれて。意識はしていなかったけれど、先生のような存在でしたね。

──その後、群馬県立女子大学の文学部に進学されました。

美学や美術史を学ぶ学科だったのですが、勉強についていけず、バンド活動ばかりやっていました。バンドを始めたのも東谷さんの影響なんですけどね(笑)。

この時間は一生続くのかなって思うくらい毎日が退屈で、遊ぶこと、カッコつけることばっかり考えてました。一方でものをつくることもやめられず、でもそれがなんのためかもわからなくって、「アートやってる」なんて、恥ずかしくて誰にも言えませんでした。

卒業する頃、身内で唯一の理解者だった祖父が病気になり、元気になってほしい一心で東京芸術大学大学院の先端芸術表現専攻を受験し、入学しました。でも、東谷さんは当初、芸大進学をあまり歓迎してくれなかったんです。「現代アートに毒されるんじゃねえよ」とか言われたりして。教育によってではなく、私の中に自然と生まれるものを評価してくださっていた方だけに、私が自身の母校でもある東京芸大で学ぶというのは、複雑だったのかもしれません。

入学してからも、経験豊富な同級生に囲まれて自信を失い、作品を発表するのが嫌で仕方がなかった。作品のことを言葉でちゃんと説明できなくて、先生たちに理解してもらえないと感じたり、友だちとは仲良くしていたけど、アーティストとして教養も技術もないことにコンプレックスが消えず、いつも「ここにいて本当にすみません」って思っていました。

「identity.body it.」の展示風景

祖父は合格を知らずに他界してしまい、やる気を失いかけていた頃、東谷さんから「君のデビュー展示を考えたから展示してよ」と言われてグループ展「identity.body it.」(nichido contemporary art、2010) に参加しました。そこで初めて作品が売れ、作品が人の手に渡ったことで、アーティストとしての意識が生まれましたね。

それから、芸大で唯一、「いいね、いいね」と言って作品を見てくれたのが、ゼミの担当教授でアーティストの小谷元彦さんです。それ以上のアドバイスがないことにモヤモヤしたりもしましたけど、いまはそうやって見守ってくださっていたことに感謝しています。東谷さんと同じですね(笑)。

実は高校の頃、東谷さんに連れられて行った山本現代で、初めて見た現代美術作品が小谷さんの映像作品《ロンパース》(2003)でした。当時からいちばん印象に残っている作品です。

──小谷さんとは2014年にコラボレーション作品《Terminal Impact (featuring Mari Katayama"tools")》も制作されていますよね。 そして、卒業時の2012年には、学生を対象にしたコンペティション「アートアワードトーキョー丸の内」でグランプリを受賞されました。

あれもびっくりでした! 審査員の方が全国の美大の卒業展を回って作家をピックアップする形式のコンペなのですが、私はそういうものがあるということすら知らなかったんです。急に電話がきて、なにがなんだか理解できないまま展示に出すことになりました。授賞式の日にも、賞をいただけるなんて予想もしていなかったので、「展示はこれできっと人生最後だろう、就職しよう」なんて思いながらレセプション会場でお酒を飲んでいたら、最後に名前が呼ばれて......。飲み過ぎちゃってまともに歩けず、大変でした(笑)。

東谷が亡くなった翌日に撮影したのが、映像作品《tools #01》(2012)。この日片山は「私は恩人が死んでも作品をつくるんだ」と、アーティストとして生きていく覚悟をしたという

本当にいろいろな人にお世話になってきたし、ラッキーにラッキーが重なって今があるんです。ひとつでも何か間違ってたら、この日に10分寝坊してたら、すべて違ってたかもしれない。本当にありがたいことだと思っています。

──近年ではパフォーマンス活動もされていますが、自分自身を「見せる」ということについては、どのようにとらえられていますか?

よく「自分をさらけ出してる」と言われたりもしますが、意識的にやっているわけではないんです。作品をつくるうえで「これはこの格好が絶対いい!」と思ってるから脱いでるだけ。学校や、大学院時代にやっていたジャズバーのアルバイトでは、義足も奇形の手もなるべく隠すようにしていたし、いまでも普段の生活で体を見せるのは抵抗があるくらいです。「ありのまま」を見せることが目的なのではなく、表現するときに出さざるをえない、それだけなんです。

──現在はご自身で作家活動のマネジメントをしながら、生きていくなかで生まれてくるものを作品として発表されています。そういった姿勢は高校時代から一貫したものですよね。

「六本木クロッシング」の展示風景。コラージュの技法を取り入れた作品を手掛けるようになったのも、「イラストレーターになりたい」と言っていた頃、東谷から「バランスの訓練のために」とコラージュ制作を勧められたのがきっかけ 撮影=永禮 賢 写真提供=森美術館

「つくらずにはいられない」とか、「つくってないと生きていられない」というのも、それはそれで正しいような気がするんですけど、突き詰めて考えると一つひとつにちゃんと理由があって。というのも、もともとコラージュなどの作品をつくっていたのは、部屋に飾るため。歌を始めたのも、きっかけは大学院の学費を稼ぐための、ジャズバーでのアルバイトでした。「つくらずにはいられない」なんて言うと、夢見がちでふわふわしたアーティスト像を描いてしまいがちだけれど、実際はリアルで切実なバックグラウンドがあるんです。

私にとって義足は身体でもないし、モノでもないし、装飾品でもない。でもそのどれでもある。そういった身体のとらえ方について書いたのが、すべてのきっかけとなった《足をはかりに》でした。結局、今やってることもすべて、このとき書いたことに尽きるんだろうな、と思ったりします。

PROFILE

かたやま・まり 1987年埼玉県生まれ、群馬県育ち。2010年、群馬県立女子大学文学部美学美術史学科卒業。2012年、東京藝術大学大学院美術研究科先端芸術表現専攻修了。2005年「群馬青年ビエンナーレ '05」奨励賞(応募時の「小論文」は、Webマガジン・Fragmentsでのインタビューに全文掲載)、2012年「アートアワードトーキョー丸の内2012」グランプリ受賞。他、主な展示に2013年「あいちトリエンナーレ」など。