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2022.8.27

《動植綵絵》はいかに生まれたのか? 求道者・伊藤若冲の歩んだ道のり

日本における「奇想の画家」としてまず名が挙がるであろう伊藤若冲。その代表作である《動植綵絵》はいまも多くの人々を惹きつけてやまない。この傑作はいかに生まれ、若冲はそこにどんな思いを込めたのか。

文=verde

伊藤若冲 紫陽花双鶏図(動植綵絵) 1759 宮内庁三の丸尚蔵館 出典=宮内庁三の丸尚蔵館「花鳥の美 若冲から近代まで」図録より
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 美術史を見渡すと、しばしば奇抜で、独創的な作風の画家や作品と巡り合う。ほかの誰にも似ておらず、独自の道を切り開き歩んだ「奇想の画家」たちの作品は、一度見ると忘れることができない。

 日本において、そのような「奇想の画家」のひとりとして、まずいちばんに挙げられやすいのが、伊藤若冲である。彼の代表作《動植綵絵》は、その迫真的な描写や鮮やかな色彩など、一度見たら忘れることができない。

 そして、そんな彼の代名詞ともいうべきモチーフが、鶏である。それまでの美術において、鶏を主役とした絵はほかにない。しかし若冲は、《動植綵絵》全30幅のうち、8幅で鶏をモチーフにしており、その後も《仙人掌群鶏図》などで取り上げている。

 なぜ彼は鶏というモチーフにここまでこだわったのか。今回は、若冲の半生とともに、《動植綵絵》誕生に至るまでの経緯をたどってみたい。

伊藤若冲 老松白鶏図(動植綵絵) 1760頃 宮内庁三の丸尚蔵館 出典=宮内庁三の丸尚蔵館「花鳥の美 若冲から近代まで」図録より

生い立ち〜絵の道に居場所を見い出す

 伊藤若冲は1716年、京・錦小路の青物問屋「枡屋」の長男として生まれた。23歳の時に、父の死を受けて家長の座を継いだものの、仕事になかなか身が入らなかった。

 もともと若冲は学問が好きではなく、字を書くのも得意ではなかった。音曲など、商人たちにとってしばしば社交ツールともなった様々な芸事にも、酒を飲むこと、女性と付き合うことなどの「楽しみ」にも興味を持てなかった。

 そのような彼の性格は、様々な人とのコミュニケーションが欠かせない「商家の旦那」という立場には不向きだったと言えよう。日々、家長としての務めを果たしながらも、居心地の悪さや気後れを感じずにはいられなかったのではないだろうか。

 そんな彼にとって、精神的な拠り所になったのが、絵を描くことだった。絵を描いているあいだは、たとえ束の間でも、家業の煩わしさを忘れ、自分らしい自分に立ち返ることができたのだろう。やがて、それは趣味の範疇を超え、彼は絵に没頭していくこととなる。

 まず狩野派の技法を学んだ。あらかた基礎を習得すると、今度は中国絵画に目を向けた。伝手をたどって、京の寺社が所蔵する名品の数々を見せてもらい、ひたすら模写に励んだのである。数年間にこなした模写の数は1000枚にも上る。

 また、絵と並んで若冲が打ち込んだのが、禅の修行だった。もともと信心深かった彼だが、30代後半ごろに、相国寺の僧・大典と親しくなったのをきっかけに、禅の教えに傾倒していく。「若冲」という名も、居士(在家の出家者)としての号であり、大典から付けられたと言われている。

自分ならではの絵を求めて

 膨大な積み重ねと集中力とによって、若冲の絵の腕は、見る見るうちに上達していった。しかし、彼はそれに満足しなかった。

 「どんなにうまく描けたとしても、手本とした先人たちの真似でしかない」

 では、自分ならではの絵、とはどのようなものなのか。どうすれば、「先人」たちと肩を並べられるようなレベルに達することができるのか。その答えを見出すべく、若冲が己に課したのは、「モチーフを自分の目で直接見て、描く」ことだった。そして、その対象として彼が最初に選んだのが、鶏だったのだ。

 花鳥画は、日本を含む東洋美術において古くから重要な一角を占め、様々な種類の花や鳥がモチーフとして取り上げられてきた。しかし、「自分の目で直接、観察・写生する」という前提条件を考えたとき、モチーフの選択肢はかなり限定されてくる。

 例えば、孔雀や鸚鵡(オウム)、錦鶏などは、華やかで見栄えがするが手に入りにくい。つねに側に置くことも難しい。しかし鶏なら、近くの農村で飼われるなど身近な存在で、四季を問わず見ることができる。さらに、鶏の羽の持つ色彩に、若冲は「美」を見出し、大いに惹き付けられるものを感じていた。

 さっそく彼は、数十羽の鶏を庭に放し飼いにし、数年間にわたって、ひたすらその生態を観察、写生し続けた。慣れてくると、観察対象をさらにほかの鳥や動植物、虫や魚へも広げていった。そして、ついにはそれらの姿や生態を、自分の思うがままに描き出せるまでになった。

伊藤若冲 群鶏図(動植綵絵) 1761-65頃 宮内庁三の丸尚蔵館 出典=宮内庁三の丸尚蔵館「花鳥の美 若冲から近代まで」図録より

到達点──《動植綵絵》誕生

 1755年、若冲は、40歳で弟に家督を譲り、隠居の身となる。家業から解放された彼は、さらに画業に邁進、やがてある計画に着手する。これまでの集大成として、まとまった作品群を描く──そう、《動植綵絵》の制作である。

 「動植綵絵」とは、動植物を鮮やかな色彩でもって描き出した絵を指す。彼は鶏をはじめ、鶴や錦鶏などの様々な鳥類、さらには虫や魚、植物と幅広いモチーフを選び、時にそれらを組み合わせ、描いていった。約10年の時間をかけて制作したその総数は全30幅になる。

 その一枚一枚に、彼は文字通り自分の持てるすべて──経験、技術、発想力──を注ぎ込み、決して手を抜くことはなかった。実際に作品を前にすると、鮮やかな色彩、質感や羽の重なり具合までもが緻密に描き込まれた細部、そしてそれらからあふれ出るエネルギーに圧倒される。

 また同時に、例えば《諸魚図》の親ダコの足に絡み付く子ダコのように、微笑ましくユーモラスな表現も見い出すことができる。

伊藤若冲 郡魚図(動植綵絵) 1765-66頃 宮内庁三の丸尚蔵館 出典=宮内庁三の丸尚蔵館「花鳥の美 若冲から近代まで」図録より

 しかし、《動植綵絵》はたんなる花鳥画の連作にとどまらない。これらの30幅に、さらに《釈迦三尊像》3幅を加えることで、作品群からは、あるメッセージが浮かび上がる。

 「草木国土悉皆成仏」

 これは『涅槃経』の言葉で、「草木や国土のように心を持たないものでも、生きとし生けるものは皆、仏性があり、成仏できる」という意味である。ここに描かれたすべての生き物たち──鶏、孔雀、魚、虫、そして樹も花も──は、すべて仏となりうる。

 つまり、全33幅の作品群を通し、若冲は仏教の教義を、具体的なイメージとしてここに現出せしめたのである。

 完成後、若冲は、《動植綵絵》全30幅と、《釈迦三尊像》3幅とを2回に分けて相国寺に寄進した。1765年、最初の寄進(《動植綵絵》24幅と、《釈迦三尊像》3幅)は、彼の父親の27回目の命日に行われた。その際、彼は「寄進状」のなかで次のように述べている。

 「私は常日頃絵画に心力を尽くし、つねにすぐれた花木を描き、鳥や虫の形状を描き尽くそうと望んでいます。題材を多く集め、一家の技となすに至りました。……(中略)世間の評判を得ようといった軽薄な志でしたことではありません。すべて相国寺に喜捨し、寺の荘厳具の助けとなって永久に伝わればと存じます……」

 絵を描くことは、彼にとって金銭や名声を得るための手段ではなかった。自分の道、自分らしく「生きる」こと、そのものだった。

 先人の「真似」ではない、自分ならではの絵を求め、ひたすら鍛錬を積み重ね、モチーフと向き合った。それは、彼にとってもうひとつの拠り所でもあった「禅」の教えにも通じるものがある。

 それらのことを考えると、《動植綵絵》とは、まさに「伊藤若冲」というひとりの男の、絵師としての技、そして仏教徒としての祈りが込められた、生の発露というべきではないだろうか。

伊藤若冲 桃花小禽図(動植綵絵) 1761-65頃 宮内庁三の丸尚蔵館 出典=宮内庁三の丸尚蔵館「花鳥の美 若冲から近代まで」図録より