ろう者と聴者、それぞれが考える「音楽」
筆者は、ろう者にとっての音楽を探る実験的な映画『LISTEN リッスン』(2016、*1)および、本作の監督である牧原依里をはじめとするろう者のクリエーターたちの議論を通して、耳で聞かない音楽という概念に大きな関心を抱いた。いっぽう、聴者のなかにも聴覚を超えた音楽表現を視覚芸術を通して試みる者もいる。
筆者が勤務する東京藝術大学は、美術学部と音楽学部を持つ総合芸術大学であり、様々な境界を超えた表現について考える場所として最適だと考え、イベント「聞こえる人と聞こえない人のための『音楽』をめぐるトーク」を企画し、同大学で開催した。聴覚を使って聞くことが大前提になっている聴者の音楽に対して、手話使用者であるろう者にとっての音楽とは何か。音楽、美術の境界を超えてディスカッションを行った。登壇者は、牧原依里(映画監督)、雫境/DAKEI(舞踏家、アーティスト)、和田夏実(インタープリター、アーティスト)、小野龍一(音楽家、アーティスト)、日比野克彦(アーティスト、東京藝術大学美術学部長)、熊倉純子(東京藝術大学大学院国際芸術創造研究科長・教授)、荒木夏実(キュレーター、美術評論家、東京藝術大学美術学部准教授)。
太鼓の振動ではない、ろう者の音楽とは?
ろう者の映画作家、牧原依里は、『ウエストサイド・ストーリー』のミュージカル映画や、ピナ・バウシュが率いたヴッパタール舞踊団の踊り、阿波踊りなどの躍動のなかに「音楽」を感じてきた。聴者がろう者に音楽を伝えようとするとき、しばしば「太鼓」が(安易に)使われるのだが、そのような振動を通して音楽を伝える演奏とは明らかに異なる感覚を覚えたという。
ろう者にとっての音楽を表現したいという彼女の気持ちは、ろう者の舞踏家、雫境(DAKEI)との共同監督映画『LISTEN リッスン』へとつながる。複数のろう者が手や指の動き、表情、身体の動きなどを用いてそれぞれの音楽を表現する姿を撮った無音の58分間。本作は、その斬新な視点が話題となった。
手話の持つ言語性と非言語性
トークでは、ろう者と聴者にとっての音楽の特徴や違いなどについて、プレゼンテーションとディスカッションが行われた。牧原と雫境はろう者の立場から手話の言語的・非言語的性質に注目する。手話は言語としての文法と意味を持つが、そのなかにある、ジェスチャーに似た表現を伴う視覚的な言語要素CL(classifier、類別詞)は、身体的・演技的要素を強調する「VV」(visual vernacular、視覚手話)や「手話詩」などのパフォーマティブな芸術表現で用いられる要素となっている。
牧原は『LISTEN リッスン』において手話の非言語性をさらに発展させる。出演者に手話としての意味をそぎ落とした、かたちとしての表現を見せてほしいと頼んだ。手話のように見えながらも言語から解放された表現のなかにこそ、ろう者の「音楽」があると感じたからだ。音声言語である日本語とは異なる、手話特有の間やリズムがろう者の身体に無意識的に染み込んでいて、そこに音楽への手がかりがあると牧原は考えた。
また雫境は、映画に出演しているろう者の表現の特性と共通性に注目し、回転の動作とスピード、指の動き、動きの一回性などについて解説し、それが独特な音楽表現の魅力につながっていることを語った。
聴覚にしばられない音楽 - 聴者の立場から
音楽家でアーティストの小野龍一は、第三者によって作曲された作品を演奏し、聞くことが前提とされてきた聴者の音楽の既成概念を覆そうとした例として、ジョン・ケージの有名なエピソードを紹介する。ハーバード大学の無響室で自身の体の神経系の音と血液の音を聞いたケージは、無音の状態はあり得ないことを実感する。その体験が有名な《4分33秒》(1952)につながり、演者の演奏がなくとも、環境音や人の動く音などの風景そのものを音楽として提示した。
これは日本の古代の音楽の考え方「物の音(もののね)」にも共通すると小野は指摘する。虫の声、衣擦れなど自然環境や人の動作を含めて音楽を捉える日本古来の概念である。
交差地点での表現を手話であらわす
赤道直下の国エクアドルでの展覧会に小野とともに参加した日比野克彦は、日本の「物の音」のアイデアを伝える方法として手話を描いた作品を発表している。北半球と南半球、日本語とスペイン語という「境界」に身を置いたとき、手話という視覚を通じた表現が思い浮かんだのだという。
土砂降りの雨でびしょびしょに濡れた靴下
両親がろう者で自身は聴者である和田夏実は、手話と日本語のバイリンガルであり、コーダ(CODA, Children of Deaf Adults)と呼ばれる。彼女自身はホルン、バイオリン、合唱と様々な音楽に触れてきたが、それを聞こえない両親に伝える際にきわめてユニークな表現を使う。例えば不協和音は「土曜日の夕方に土砂降りの雨で靴下がびしょびしょになったときの靴」、低音でホルンが奏でる音楽は「掃除機から出てくる温かい空気」、メロディーは「シャワーの水しぶきが手のはじにかかる感覚」。
音をこのように言語化、視覚化する斬新さに会場からは驚きと笑いの声が上がった。和田いわく、彼女のろう者の父親の視覚表現が卓越しており、幼少期から彼と表現の遊びを重ねてきたのだという。その体験が和田の表現力に影響していることは間違いない。彼女は、鼻歌を歌いつつ手話のように指を動かしながら夜道を歩くことがよくあるそうで、声と手話行為が自然に結びつくコーダの感覚にも、新たな音楽のヒントがありそうだ。
三次元をきちんと生きるろう者の感覚
熊倉純子は『LISTEN リッスン』を見て、自身がこれまで接してきた様々な音楽を連想したと述べる。ラップ音楽、ミュージカル『シェルブールの雨傘』、演歌のデュエットなど聴者の音楽に通じる部分もあり、また異なる部分もあるが、ろう者に音楽があることは確信できたという。自分のなかの時間と外部のリズムを呼応させる表現を見ていると、聞こえない音色、音質、豊かな音風景の存在が確かに感じられる。さらにいえば、ろう者の感覚には時の流れや空間への鋭敏さが感じられ、3次元の世界をきちんと生きているように思える。それに対して発話する自分が薄っぺらな2次元の世界に生きているような感覚すら覚えると語った。
熊倉のこの感覚は筆者も感じることがある。音声言語によるリニアなコミュニケーションをとる聴者に対して、ろう者の空間的、立体的な情報のとらえ方と伝達方法は即時的でもある。和音を奏でるように、指の動き、表情、身体動作を伴う手話では一度に多くのことを伝達することができる。思考からアウトプットまでのスピードの速さは、状況把握の方法と手話言語の手法独特のものであろう。聴者が「おいてきぼり」になることは多々ある。
議論のはじまり
その後のディスカッションと会場からの質疑応答では、「ハーモニー」とは何か、ダンスと音楽の違い、ろう者の独り言は手話か日本語かなど様々な質問や意見があり、活発な議論が行われた。「ハーモニー」という概念がわからないという雫境には、ほかの登壇者から「お団子」(ドミソなどの和音を五線紙上に表したかたち)、「スープ」、「誰が食べてもわりとおいしいという調合の料理」などの表現が出てきて盛り上がりを見せた。
ろう者の音楽とは何かということをきっかけに議論した今回のイベントは、誰かがつくった曲を聞くという西洋的な音楽の慣習や、明治以来の東京藝術大学における教育の伝統を批評的に振り返ることにもつながった。聴覚と視覚、ろう者と聴者の感覚と特性に注目し、新たな知覚と表現の可能性を探る試みでもあった。議論はまだ始まったばかりだが、異なる感覚や概念について情報交換することは、表現とコミュニケーションの領域を拡大する上で重要な経験となる。芸術大学として、あらゆる境界を超えて未知なる感覚を探る取り組みをこれからも行っていければと思う。
なお9〜12月には、筆者と牧原らが協働して、連続講座「アートを通して考える」を開催する(*2)。美術やパフォーマンスの世界で活躍するろう者と聴者のアーティストやエデュケーターを講師として招き、異なる立場や感覚を通して、新たな視点や課題を探るプログラムとなる。
*1――『LISTEN リッスン』は「ろう者の音楽」を視覚的に表現したアート・ドキュメンタリー。共同監督・撮影・制作=牧原依里・雫境(DAKEI)。
https://www.uplink.co.jp/listen/https://townofsl2020.wixsite.com/tsa-deaf
*2ーー「アートを通して考える」は全5回にわたるプログラムを予定。詳細はウェブサイトを参照。
https://townofsl2020.wixsite.com/tsa-deaf