EXHIBITIONS

彫刻刀が刻む戦後日本―2つの民衆版画運動

工場で、田んぼで、教室で みんな、かつては版画家だった

鈴木賢二 署名 1960 町田市立国際版画美術館蔵

小口一郎 治水か破水か(『鉱毒に追われて』より、1972年) 小口一郎研究会蔵

滝平二郎 『裸の王様』より 1951 町田市立国際版画美術館蔵 ©︎ JIRO TAKIDAIRA OFFICE Inc.

小林喜巳子 私たちの先生を返して ―実践女子学園の斗い― 1964 個人蔵

新潟県柏崎市立枇杷島小学校(指導:藤巻金一) はんがの指導 作品・実践・計画(1956年3月1日) 志賀町蔵

青森県八戸市立鮫中学校版画クラブ(指導:坂本小九郎) するめの出来るまで(1960年11月) 志賀町蔵

青森県八戸市立湊中学校養護学級生徒(指導:坂本小九郎) 天馬と牛と鳥が夜空をかけていく(『虹の上をとぶ船・総集編(2)』より、1976年) 五所川原市教育委員会蔵(写真提供=青森県立美術館)

京浜絵の会『版画集』第二集表紙(1955年8月) 木版・謄写版 個人蔵

 町田市立国際版画美術館が企画展「彫刻刀が刻む戦後日本―2つの民衆版画運動」を開催。戦後日本で展開した、知られざる2つの民衆版画運動「戦後版画運動」「教育版画運動」を紹介する。

 戦後に誕生した2つのグループ「日本版画運動協会」と「日本教育版画協会」。どちらも民主主義への参加を呼びかける民衆文化運動が活発だった1940年代後半から50年代に活動しはじめ、当時の時代精神を背景に、版画をつくることで誰もが表現の主体となることを目指した。

「日本版画運動協会」のメンバーに強い影響を与えたのは、半植民地化された中国を憂えた魯迅が主導した中国木刻(木版画)だった。敗戦間もない47年、中国木刻が紹介され大きなインパクトを与えると、感銘を受けた人々が各地で巡回展を開き、版画熱が全国に伝播。49年には「日本版画運動協会」設立に至り、主要メンバーには飯野農夫也や上野誠、大田耕士、小口一郎、鈴木賢二、滝平二郎、新居広治、油井正次らがいた。

 いっぽう、日本版画運動協会設立メンバーのひとりである大田耕士は、そのメンバーや恩地孝四郎、平塚運一らの協力を得て51年に「日本教育版画協会」を設立。小学校教員だった経験を活かし、学校教育で版画を普及し、教員と子供が主体の民衆文化運動を目指した。はじめは学級文集の挿絵で版画を推奨したが、参加教員が多様になるにつれ絵が文集から独立し、子供たちが取材した地域の生業・歴史や民話採集を題材に、版画集・大型作品を共同制作することにも発展。この影響で58年には、版画制作が小学校全学年の学習指導要領に加わり、汎用的なカリキュラムが成立する同時に、熱心な教員によるユニークな教育実践も行われ続けている。

 本展では、社会問題や平和運動と結びついた版画作品や、北海道から沖縄まで全国約35都道府県から集まった約80冊の版画集などを一堂に展示。約400点の作品と豊富な資料を通して、日本の教育版画とも深い関わりのある、2つの民衆版画運動の全貌に迫る。