EXHIBITIONS
銭湯と横浜 -“ゆ”をめぐる人びと-
都市部において、人々は心と身体の疲れを癒し、入浴の機会を提供する街々の公衆浴場「銭湯」。1859年の横浜開港以降、干拓地の上に新しい街ができると、銭湯も新開地に進出し、さらに人口流入による都市化の進展とともに数を増加させ、同業者間の激しい競争を生み出した。主に北陸地方から移住してきた銭湯の経営者たちは、試行錯誤を重ねながら生き残り、横浜の地に根づいた。
いっぽう、人々は入浴に「療養」や「娯楽」という要素を求め、箱根や湯河原、熱海などの温泉地に足を向ける。1914年、橘樹郡大綱村でラジウム鉱泉が湧出すると、27年の東横線全通と相まって、横浜の北部に京浜の「奥座敷」となる綱島温泉が出現。多くの人々が癒しを求めて綱島へ赴くようになった。
本展では、銭湯や温泉をキーワードに、近代横浜における都市形成の変遷をたどる。
いっぽう、人々は入浴に「療養」や「娯楽」という要素を求め、箱根や湯河原、熱海などの温泉地に足を向ける。1914年、橘樹郡大綱村でラジウム鉱泉が湧出すると、27年の東横線全通と相まって、横浜の北部に京浜の「奥座敷」となる綱島温泉が出現。多くの人々が癒しを求めて綱島へ赴くようになった。
本展では、銭湯や温泉をキーワードに、近代横浜における都市形成の変遷をたどる。




