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オーギュスト・ロダン

Auguste Rodin

 オーギュスト・ロダンは1840年フランス・パリ生まれ。14歳でプティ・テコール(小学校)と呼ばれる帝国素描学校に入学。はじめは自然のなかで描く方法などデッサンを学び、やがて塑像に興味を持つ。彫刻家になることを決心し、国立高等美術学校を受験するも3度失敗。64年、サロンに《鼻のつぶれた男》を出展するもの、彫刻は美化すべきという伝統に反していること、またモデルに似過ぎているとしてここでも落選する。職を辞した父に代わって家計を支えるため、国立高等美術学校への進学を諦め、装飾の仕事に従事。この頃、妻のローズ・ブーレと出会う。71年、動物彫刻家のカリエ=べルーズに師事。小型の胸像から美術館や歌劇場の装飾まで、あらゆる仕事を請け負う。

 べルーズの工房がベルギーに移ると、妻と息子をパリに残して単身赴任。6年間ベルギーを拠点に活動し、彫刻家として展覧会の初出品も果たす。75年、念願のイタリア旅行が実現し、ミケランジェロ・ブオナローティの彫刻を目にする。ベルギーに帰国後、ミケランジェロの作品の研究をもとに制作した《青銅時代》(1877)を発表。その完成度から、実際に人体から型をとって制作したのではないかという疑いがかけられる。悪評を不服としてパリで《青銅時代》を再展示し、嫌疑を払う。この事件を機に一部の支持層を得てパリに戻る。

 80年、装飾美術館のための門の依頼を受け、ダンテの『神曲』の地獄編をテーマとした《地獄の門》(1888〜)に着手。人物像を縮小して配置し(再び型取りの疑い避けるためか)、地獄編の場面をひとつの作品に集約することを構想する。最終的には未完のままだったが、《地獄の門》から派生した《考える人》(1880)、《私は美しい》(1882)などの名作が生まれる。同時期に後の女性彫刻家のカミーユ・クローデルと出会い、若き才能に刺激されて、《接吻》(1901〜04)など女性や愛を主題とした作品を多く制作する。

 ダイナミックな構造、人間の生命力や内面世界を表現した独自の力強い作品は、アカデミズムに逆行して非難を浴びることも少なくなく、《カレーの市民》(1889)、《バルザック記念像》(1898)などのように、計画通りに完成するまでしばしば時間を要した。89年、クロード・モネとの2人展が開催。パリ万国博覧会の開催年にあたり、記念的展覧会となった。晩年は大規模な仕事を控えるも多作ぶりは変わらなかった。1917年没。

 19年にアトリエとして使われたピロン館がロダン美術館として開館。日本では国立西洋美術館、静岡県立美術館、大原美術館に主要作品が収蔵されている。