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狩野永徳

Eitoku Kano

 狩野永徳は1543(天文12)年、狩野派三代目棟梁・狩野松栄の長男として生まれる。幼少時から画才を発揮し、10歳のときに祖父・元信に伴われ、将軍・足利義輝に謁見。制作時期については諸説あるが、20代前半で《洛中洛外図屏風 上杉本》(1565)や大徳寺聚光院の《花鳥図襖》を制作したと考えられ、早くも元信に匹敵する技量を身につけていた。

 34歳で織田信長に召し抱えられて以降、一門を率いて、信長の安土城、秀吉の大坂城、聚楽第、そして後陽成天皇の内裏、と大量の障壁画制作に次々と当たった。はじめ細密な描写を得意としていた永徳が、《唐獅子図屏風》のような雄壮で迫力に満ちた「大画」様式を確立したのは、天下人からの怒濤の注文に応えた結果でもあった。90(天正18)年、過労がたたってか、東福寺法堂の天井画制作中に病に倒れ、同年没。時代の覇者たちとともにあった永徳の作品は、そのほとんどが戦火で焼失してしまっているが、桃山画壇の頂点に上り詰めた偉業は後世に語り継がれた。

 京狩野二代目・狩野山雪とその子・永納によってまとめられた『本朝画史』は、永徳を「恠恠奇奇(怪々奇々)、自ずから前輩不伝の妙を得て、もって一時に独歩す」と評し、国宝《檜図屏風》はこの一節を象徴する永徳最晩年の作と考えられている。