中尾拓哉 新人月評第9回 探訪する、映りながら映らない画 空族+スタジオ石+YCAM バンコクナイツ展「潜行一千里」
東南アジアの闇の奥。熱帯の空気は、空族がこれまで撮影してきた乾いた画を、どこかしっとりとさせる。本展は映画『バンコクナイツ』の一夜限りの爆音上映とともに公開され、タイ─ラオス─ベトナムを旅する物語と呼応しながら、4000キロメートルを超える移動の中で撮影されたさまざまな場面を、4面+大型マルチスクリーンで映す映像インスタレーションである。映画では日本人専門の歓楽街で働くタイ人のホステスとベトナム戦争の記憶をたどる元自衛隊員による、都市の極彩色と地方の天然色のコントラストに翻弄される男女の物語が映し出される。一方、本展では撮影クルーによる、メイキング、ドキュメンタリー、そして撮影本番と、穏やかな雰囲気で映画に映らない現場の映像が淡々と切り替えられていく。
鑑賞者が4面スクリーンを前に、大型スクリーンを後ろにすれば、両目の視界のようなパノラマ、そして気配としても感じられるような巨大な背景とのあいだに立つことになる。水上タクシーの発着場と両側のマッサージ店を前に、向かいに建つ涅槃像の頭部を背にし、あるいは二人乗りのバイクを前に、後方に遠ざかる景色を背にする。映画のために撮影されるホステスたちが客を誘い、声をかけるシーンでは、背後にカメラを回す撮影クルーの姿が映し出される。ロードムービーでありながら、移動のシーンがほとんどない映画本編に対し、本展の映像は移動の景色を中心に、撮影ルートをたどり、かつ映画制作時に撮影できなかった場所にまで至る、まさに映画に映らない画をともなう旅となって、鑑賞者を引き込んでいく。
しかし、こうしたスクリーンの位置関係によって鑑賞者を当事者のように立たせるのは、決して積極的に身体性を生み出すためだけではない。むしろ車内/外から異なる方向へと流れる景色、あるいはスクリーンのあいだを通り抜ける/抜けない車、そして同時に沈んでいく5つの夕陽は、その膨大に撮り溜められた多角的なショットを、フレーム外へと可能世界的にあふれさせ、一つの時空間を安定させる視点が次々と消失させられていく。だからこそ、4面スクリーンにラオスに残るベトナム戦争時の米軍の爆撃跡であるクレーターの周りで談話する撮影クルーの姿と、大型スクリーンに上空から見下ろしたクレーターの周りを歩く小さなクルーの姿とが映し出されているとき、戦闘機のエンジン音と空爆音が轟くが、かつての誰かの視点と重なりあうはずの情景は、そののどかな映像と分離したまま、やはり交わらない。
こうして、映画にも、そしてそこからあふれた映像のいずれにも映らない画が、不穏な平穏さ、平穏な不穏さを軸に立ち現れてくる。4+1面のスクリーンの連動を全体から見通すには、あいだではなく、外に立たねばならない。しかし不穏さを映す映画鑑賞と、平穏さを映す映像鑑賞とが混在する中でこそ、5つのスクリーンには鑑賞者の影が深く映り込まねばならないのだ。そのとき、映画の中に没入し消えゆく身体は、シークエンスとなりそうで決してならない無数のシーンの前に取り残された身体へと反転し、物語と現実、歴史と現在のあいだに消えゆく映りながら映らない画の方へ、幽かに探訪し始めているのである。
PROFILE
なかお・たくや 美術評論家。1981年生まれ。最近の寄稿にガブリエル・オロスコ論「Reflections on the Go Board」(『Visible Labor』所収、ラットホール・ギャラリー、2016年)など。
(『美術手帖』2016年12月号「REVIEWS 10」より)
本作は、2017年2月に開催される「第9回恵比寿映像祭」でも上映される予定だ(会場構成上、YCAMでの展示形式とは一部異なる場合あり)。詳細は恵比寿映像祭公式サイトを参照。