中尾拓哉 新人月評第6回 訪れの距離 「風景の空間」展
目前に広がるのでも、目指されるのでもない風景がある。自らの意思によって訪れているようであっても、風景のほうからやってくるような。本展は、風景が山や川、空気や光というさまざまな要素と関係しながら一つの景色となるように、作品に多面的に立ち上がる現象をそのままにとらえ直そうとするものである。鑑賞者は、まず作品が見せる風景の色合い、すなわち月に照らされる教会、海を望む二つの窓、水面に浮かぶ山、生い茂る緑、星の散らばる空、そして鳥の羽ばたきを目にすることになる。
これらの景色の成立は、制作方法を介したメディウムとの相互関係によって示される。大谷透はサンドペーパーの裏側に印刷された既に決定している文字やロゴマークの図柄を基盤に、しだいに異なった対象を浮かび上がらせ、太中ゆうきは任意の図形(菱形と対角線)を与件とし、それを満たすために導いた内容を描き出している。また、貴志真生也(きし・まおや)はキャンバステープや木材を組み上げながら、意味深長なあり方を避けるようでどこか彫刻らしく見える位置にとどまらせ、関口正浩は絵具を皮膜状にしてキャンバスへと移し、手業以外の破れを顕在化させている。そして、中川トラヲは支持体や形体から飛び込んでくる視覚像を追い、想定していない方向へと痕跡を積み重ね、和田真由子は想起されるイメージが漠然としていれば半透明なビニールを、判然としていれば不透明な木材を適切にあてはめている。
こうした制作方法より考えれば、これらの景色はメディウムによって受動的に喚起させられているように見えなくもない。しかし、制作における能動性と受動性の制御それ自体は、方法に準じているのではなく、メディウムとイメージの連動を精確に一致させるプロセスによる。完成を予測できない状態を含んだ上で、大胆さと繊細さそのままに、現れを精緻に通過させなければならない。そこにイメージを境界面とする他方から、可視化されていない、そして認識されていない風景の訪れがある。イメージはメディウムによって作品の表面を形成していくものでありながら、発見されずに作動する別のシステムに従属している。
本展において「風景」と呼ばれるものは、作品を表面とし、このようなプロセスを奥行とみる、複合的な空間である。重要なのは、メディウムや制作方法を通じ生み出された表面とともに、プロセスの奥で引き起こされている出現への洞察がなければ、決して「風景」へと至らない、ということである。一面的であれ、多面的であれ、少なからず鑑賞者のパースペクティブが受容されれば「空間」は成立する。しかし、例えば大谷の作品の非立体的な遠近法による景色が、サンドペーパーの裏側にある文字やロゴマークと結びついた、メディウムとイメージの中間領域にあるとわかっても、その現れの境界面はいまだ遠い。隠された法則にしたがい、目前に広がるのでも、目指されるのでもない風景、それは鑑賞者と作品の距離ともなりうる。訪れの距離は遠いのか、近いのか、あるいは遠くとられているのか、近くとられているのか。その漠とした奥行において、制作と鑑賞の邂逅する地平を開くことこそが試されているのである。
PROFILE
なかお・たくや 美術評論家。1981年生まれ。第15回『美術手帖』芸術評論募集にて「造形、その消失においてーマルセル・デュシャンのチェスをたよりに」で佳作入選。
(『美術手帖』2016年9月号「REVIEWS 10」より)