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「愛」の感触を語る。地主麻衣子「新しい愛の体験」展

1984年生まれの地主麻衣子(じぬし・まいこ)は、大学在学中にドローイングや小説を制作、2010年から映像を撮り始め、これまでさまざまなメディアを組み合わせた作品で独創的な表現方法を探究してきた。HAGIWARA PROJECTS(東京・初台)で開催した個展「新しい愛の体験」では、タイのチェンマイで現地の女性との対話を撮影した映像作品を発表。「愛」をテーマに紡がれる被写体と撮影者のコミュニケーションの記録を、中尾拓哉がレビューする。

新しい愛の体験 2016 HDビデオ 42分 © Maiko Jinushi Courtesy of HAGIWARA PROJECTS

中尾拓哉 新人月評第5回 リボンに触れる手つき 地主麻衣子「新しい愛の体験」展

「あなたと愛について話したいんです」と、率直な言葉で対話がはじまる。半透明なリボンが木の枝から垂れ下がり、黒い服を着た女性が白いタイルの上に裸足で立っている。この映像作品は、地主麻衣子がタイのチェンマイに滞在し撮影したものである。本展会場では、映像とともに二人が話をしている舞台が再現されており、自然と鑑賞者は愛について問われ、このささやかな対話篇の当事者となるよう誘われる。

新しい愛の体験 2016 HDビデオ 42分 © Maiko Jinushi Courtesy of HAGIWARA PROJECTS

「あなたの愛のイメージを教えてもらえますか」という地主の問いにたいして、「ライトグレー」と述べる彼女の答えは、白と黒の中間色として、万物の陰陽を連想させる抽象的なものである。また「完全な愛を得たときの気持ちを歌で表してください」と言われれば、オーケストラの曲を口ずさみ、そして「安全じゃないと感じたらどうしますか」と尋ねられれば、「腕を閉じる」とジェスチャーをする。話はある一定の深度で次々と流れていき、イメージ、感情、体感が少しずつ呼び覚まされる。

足下のタイルには、ときに花や水がまかれ、花を踏む感触、水の冷たさが快/不快となって彼女へと伝わっていく。このような非言語的コミュニケーションが織り込まれることで、造形的言語が語り出す場が確保されているのである。思い返せば、彼女ははじめからずっとリボンに触れていた。指先の点を面に含ませるように、リボンの線を立体的に巻きとる。まるで、視覚がとらえている表を、触覚であれば裏とともに、あるいは全方位から同時に包み込んでいけるというように。その指の絡まりは、イメージ、感情、体感を撹拌し、かたちのないものを想起する手つきとなる。

新しい愛の体験 2016 HDビデオ 42分 © Maiko Jinushi Courtesy of HAGIWARA PROJECTS

地主は繰り返し「それは愛ですか」と問うていく。そして「愛が何なのかなんてわからないよ。だから、これが愛だとか、愛じゃないとかは言えないけど、たぶんこれは愛だと思う」と彼女は声を強める。「最後にもう一つ」と地主が問いかけると、「Oh my god!」と口走った彼女はもうこれ以上、愛について思いつかないといった様子で苦笑いを浮かべる。すると、リボンから手を離し、腕を閉じ、心が何かにとらわれたかのように「動きたくないとき」と、そう言ったのだ。「それは愛ですか」と地主が問い返すと、今度は微笑を浮かべ、小さくうなずいた。そのとき彼女と彼女を撮影する地主の頭上を、飛行機が轟音とともに低く飛び、通り過ぎていく。近づいてくる音とホールドされる感覚。無関係に現れているかのような瞬間は収束し、シナリオのない即興の恐ろしい精度によって対話のリアリティーが映し出される。想起の場となるその思いがけない一瞬を、地主は撮ろうとしていたのである。

こうして、ある完成された瞬間が、カメラに残されると同時に過ぎ去っていく。しかし、「私」と「あなた」で紡がれる古くからある方法と非言語的コミュニケーションによって、深度を変えてたどりついた対話の奇跡を、「愛」に重ねることができるのであろうか。目前の半透明なリボンに触れると、ざらついた質感のわずかな摩擦から、温度を持たないイメージは温度を持つ体感へと変わり、彼女の手つきに表れていた、不確かなもののとらえようのなさに、確かな共感が生まれるのである。

「新しい愛の体験」展の展示風景

PROFILE

なかお・たくや 美術評論家。1981年生まれ。第15回『美術手帖』芸術評論募集にて「造形、その消失においてーマルセル・デュシャンのチェスをたよりに」で佳作入選。

(『美術手帖』2016年8月号「REVIEWS 10」より)

編集部

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