扉を開けると、ライブハウスのようなステージ付きの巨大空間が広がっていた。廃品で貰ってきて自分で修理したという巨大なゾウやキリンのオブジェに、誰でも自由に叩けるというドラムセット。そして店内のあちこちには、城田さん自作のカラクリ人形だけでなく、1本の木から彫り出した河童や達磨像などをモチーフにした卑猥なオブジェが至る所に並べられていた。
「はじめは普通の大黒さんとか恵比須さんとかを彫りよったんですけど、こういう夜の仕事は、そういうまともなんを彫っても、『どっかで買ってきたんだな』という感じでしか見てくれんから。水商売じゃけぇ、下ネタなほうが喜ぶもんで、こういうエッチな人形をつくったり絵を描いたりしよる」。
城田さんは、広島県世羅郡甲山町(現在の世羅町)で農家の三男として生まれた。小さい頃から工作が得意で、高校を中退して上京し、塗装工場やタクシー運転手の仕事を経て、はとバスの運転手として働いた。そこでバスガイドをしていた奥さんと出会い、やがて田舎が恋しくなり、23歳のときに帰郷。
地元でもバスの運転手などをしたあと、独学で板金塗装業の仕事を始めた。その頃、近所の人たちとの遊び場にしていた倉庫を使って、趣味で社交ダンスを習い始めた城田さんは、「社交ダンスが終わって、打ち上げで飲んどるうちに、ここで水商売ができるんじゃにゃあか」と一念発起。42歳のとき、倉庫を改修して、スナックジルバを開店したというわけだ。店名の由来は、社交ダンスの名前にあやかってつけたものだが、ハイビスカスの花のような店の看板に見とれていると、「ありゃあ、踊り子のスカートを真下から見たところよ」と教えてくれた。
人形制作はすべて独学で、絵を習ったこともない。最初につくったカラクリ人形は、オヨネーズの名曲『麦畑』が流行したときに、嫁(およね)が鎌で夫(まっつあん)の陰茎を切る仕掛けにした。「いけんのはわかっとったけど交差点に飾ったら、小学生にゃあ、ようウケたわ。そのうち教育委員会やお巡りやら来て、半年くらいで撤去されてしもうたけど。あれで、ちょっとは有名にはなったんです」と笑って語る。道路沿いで始めたスナックだったが、「騒音がうるさい」と近所の人たちから苦情が出るようになり、毎日のように警察からも連絡があったそうだ。そこで現在の場所に移転したが、倉庫だったため、城田さん自らが1年かけて改修を手がけた。