• HOME
  • MAGAZINE
  • SERIES
  • 櫛野展正連載「アウトサイドの隣人たち」:まとまりきらないほど…

櫛野展正連載「アウトサイドの隣人たち」:まとまりきらないほど 人生はいい。【2/3ページ】

 二宮さんは、1968年に静岡県島田市でひとりっ子として生まれた。学生時代はパラパラマンガや人の似顔絵を描くなどしていたが、早くから「自分の画風にオリジナリティはない」と悟っていたという。高校卒業後は昭和女子大学へ進学し栄養学を学んでいたが、アート関係への想いを捨て切ることができず、大学へ行きながら、桑沢デザイン研究所の夜間部にも通い、デザインを学んだ。

二宮奈緒子さん 撮影=近藤ゆきえ

 「自分の個展とかやってみたかったんですけど、やりたいことが空っぽだから、自分からは何も出てこないでしょ。依頼されたものを形にしていくデザインの分野だったらいいかなと思ったんですよね」。

 大学を卒業したあとは、静岡市内の広告総合商社へ3年間勤務。その後、デザイン事務所に7年半勤めたあと、29歳で結婚し、31歳のときからデザイナーとして独立した。翌年には、一人息子となるKANくんを出産した。

 「少し変わった子になるっていうKANって名前を喜んでつけた自分を後悔したのは、この子が『知的障害を伴う自閉症』と診断されたときでした。そのときに貰った『自閉症の手引き』をそっと閉じて、絶対こんな風にならないように育てようと誓ったんです」。

 ABA(応用行動分析)の分野で著名な先生を静岡まで招聘し、何度も相談した。東京の大学病院にも通い、脳波を測定。KANくんが望ましい行動をしたときに、回るものに興味があったKANくんのために、ミラーボールが回る仕掛けまで準備したが、暗室に入るだけで泣き喚いてしまったため、挫折した。ほかにもモンテッソーリ教育や七田式教育、心理学から脳科学まで、我が子の障害を治すために、ありとあらゆる療育を試してきた。

 当時のKANくんは、小学校へ登校するとすぐに、「給食はいつですか」と尋ねることが続いていたため、絵カードを自分でめくって給食の時間が視覚的に理解できるような環境を先生と一緒に整えた。

 「この頃は、家でも療育セットを揃えていて、学校と同じ取り組みを家でも練習していたんです。いま考えれば、家はゆっくり過ごす場所だろうと思うんですけどね。とにかく、親子共々疲弊しきっていましたね」。

 そんな二宮さんにとって、転機となったのは、静岡大学で発達心理学を専門にしていた加藤弘通准教授との出会いだ。加藤准教授から、見方を変えることの大切さや、できないことをできるようにするのではなく、できていることを見守ることが重要である点を学んだ。

 「『この子は何をやっているときが楽しそうなんだろう』って考えたら、回るものを見ているときでした。自転車もタイヤを回したいから、あっという間に乗れるようになりましたね。漕いでいるときも、タイヤを覗いていたから危なくはありましたけどね。サイクルスポーツセンターに行くと、朝から閉園まで水も飲まずに自転車を漕いでいたほどです。ひょっとすると自転車で食べていけるんじゃないかと思って、BMXやマウンテンバイクにも乗せてみたんです。BMXは大会にも出ていましたが、人と争うことは好きじゃなくって、『みんなと一緒に楽しく自転車に乗っている方がいい』って言われちゃいましたけど」。

 理容店のサインポールや茶畑にある防霜ファンなど、二宮さんも一緒になって「回るもの」を探すようになり、運転手に道路形状を認識させるための視線誘導標であるデリネーターは好き過ぎて本物を取り寄せたというから、一緒になって楽しんでいる様子が伝わってくる。

 そんな二宮さんの子育て奮闘記は、次第に周囲へ知られるようになり、新聞社発行の情報紙で月に一度、6年半もの間、連載を持つようになった。KANくんが街灯や映画のエンドロールなどを、体を使ったモノマネで表現した話など、日々の暮らしで巻き起こる面白エピソードが次々とマンガ化されていった。「ネタに困っていたから、彼が何かしでかしてくれると助かるんです」と当時を振り返る。

 中学校にあがると、人前に出ることが好きだったKANくんに、担任の先生が勧めてくれたのは、SPACシアタースクールだった。SPAC(静岡県舞台芸術センター)の俳優やスタッフによる指導のもと、演劇を学ぶことができるプログラムで、応募してみたところ、大いにハマったという。夏休みは毎日5時間練習へ通うようになり、本番でも彼の特性に応じた役が与えられた。自分の居場所ができたことで、それからの5年間、夏は欠かさず、通うようになったようだ。

 「みんなと一緒に何かするのは楽しいってことを経験できたんです。完璧と言って踊るダンスは微妙にずれているし、失敗したって何食わぬ顔で成功と言ってましたけど。私も本当は演劇や裏方をやりたかったんです。だから、KANを介して、私がやりたかったことを擬似体験していたんですよね。私の楽しみに付き合ってもらっている気がすごいするんです」。

編集部

Exhibition Ranking