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櫛野展正連載「アウトサイドの隣人たち」: たとえ芽は出なくとも

ヤンキー文化や死刑囚による絵画など、美術の「正史」から外れた表現活動を取り上げる展覧会を扱ってきたアウトサイダー・キュレーター、櫛野展正。2016年4月にギャラリー兼イベントスペース「クシノテラス」を立ち上げ、「表現の根源に迫る」人間たちを紹介する活動を続けている。彼がアウトサイドな表現者たちに取材し、その内面に迫る連載。第72回は、お茶農家を営みながら独学で作品制作を続ける望月章司さんに迫る。

文=櫛野展正

望月章司さん

 富士山南麓に位置する静岡県富士市。その温暖な気候や土壌は茶栽培に適しており、県内有数の茶の生産地としても知られている。富士川を臨んだ段丘で茶農家を営みながら、この地で独学による作品制作を続けているのが望月章司(もちづき・しょうじ)さんだ。 

 茶業とみかん栽培で生計を立てていた両親のもと、望月さんは1956年に3人きょうだいの長男として生まれた。小さい頃は、夢も何もなく、様々なことに無関心な子供だったという。

 「反面教師として親とは別の仕事に就くって選択肢があったかもしれないけど、俺はせっかく親が敷いてくれた道なんだから乗っからない手はないなと思ったわけ」と農業高校を卒業したあとは、榛原郡金谷町(現在の島田市)の国立茶業試験場へ進学。2年間の寮生活を経て、20歳で就農し両親の手伝いを始めた。

 茶農家のほとんどは、毎年4月末頃から新茶の摘採が始まり、ゴールデンウィークから明け頃に最盛期を迎える。繁忙期には手摘みによる女性を20人、工場の手伝いを3人ほど雇用していた時代もあったようだ。「5年前から体力的なこともあって仕事を減らしてるんですよね。2022年9月には、硬膜下血腫で倒れちゃったしね」と語る。

 仕事の合間に趣味として、いろいろなことに挑戦してきた望月さんだが、作品制作に至るまでには紆余曲折があったという。まず、30代後半から熱中していたのが、近くの富士川で気に入った石を拾ってきては家に持ち帰ることだった。望月さんによれば、家で集めた石を眺めることはなく、部屋が手狭になってくると、また川へ戻しては別の石を拾うことを繰り返していたようだ。

「週5回ほど富士川へ通っていましたね。石を拾っている間は無心になれるんですよね。これって現在の制作に向かう姿勢にも繋がっているように気がしていて、そういう訓練になっていたのかも知れません。でも、一番驚いたのが家族の誰もが何も不平不満を言わなかったことですね」。

 5年間、石拾いを続けたあと、続いて興味を持ったのが「エア・ジョーダン」や「エアマックス」などのスニーカーだった。ちょうど時代は、90年代後半のスニーカーブームの真っ只中。「5年間で80足ほど集めたところで、俺の足は2本しかないぞってことに気づいちゃったんです。そしたら、なんだかスニーカーが可哀想になっちゃって、ほとんど売ったんですよ」と笑う。その後は、骨董品の蒐集に興味が移ったものの、これも5年で熱が冷めてしまった。そんな望月さんが、30年ほど前から並行して続けてきたのが、美術館などへ足を運ぶことだった。

 「展覧会なんかを観て、自分なりにこれが好きとか嫌いとか評価するわけですよ。でも、いざ自分自身を見つめたとき、偉そうなこと言ってるけど、『俺は何者なんだ』と我に返ったわけです。それが50歳のときでした。『自分はこういう人間なんだ』って主張できるものを自分でもつくってみたいと考えるようになりました。じゃあ、一体何をするんだって考えたとき、シャッターさえを押せば表現ができると思ってた写真にしようと。いま考えても、安易な発想だし、とくに写真が好きってわけじゃなかったんですけどね」。

 50歳から、携帯電話のカメラで撮影を開始。そんなとき、望月さんの身に突然不幸が降りかかる。2007年に、2歳下の妹が白血病により急逝。入院中の妹を見舞うため、病室を訪ねたものの、なんと声を掛けていいかわからず、すぐに外へ出てしまい、「せっかくお見舞いに来たのに、すぐに帰っちゃう」と背中越しに呼び止められることがあった。またあるときは、死期を悟った妹から「私、死んじゃうの? 死にたくないよ」と言葉を投げかけられたこともあったという。妹の死によって、「生きる、生きたい」をテーマに作品制作を続けていくことを決意。その後、一眼レフを購入し、毎日触っているうちに絞りなど撮影のノウハウを覚え、知人に頼まれて展覧会へ出展するようにもなった。

 「そういう場所に行くと、第三者から、これは露出が合っていないから白飛びや黒つぶれしているなど言われるようになったんです。何を言ってんのかなと思ったんですよ。俺にとっては、そんなくだらないことをわざわざ言われるのも、めんどくさいなと思ってね。誰にも文句を言われないように、撮った写真を加工するようになりました」。

 パソコンの中に入っていたフリーソフトを見よう見まねで使用し、撮影した写真を重ね合わせるようになった。誰かに見てもらうためではなく、その目的は、あくまで自分が納得できるものをつくり出すためだ。誰に見せるわけでもなく、茶工場の一角でひっそりと続けてきた、その原動力とはなんなのだろうか。

 「石を拾う行為と同じで、夢中だけど無心になっているんですよね。それが心地よかったのかもしれない。たんに写真を撮ることとは違って、自分で頭の中で計算して加工目的の写真を撮るんですよ。被写体としてオブジェをつくっていても、撮影しちゃえば壊していましたから」。

 そう語る望月さんにとって大きな転機となったのは、2016年に「富士の山ビエンナーレ2016 フジヤマ・タイムマシン」へ参加したことだ。2014年より2年毎に、富士市、静岡市、富士宮市の3市を跨ぎ開催している芸術祭で、地元作家枠として公募により初めて選出された。

 「加工した写真を展示しようと思ったら、面談の際にディレクターを務めていた小澤慶介さんから、『写真はいいから(他のをつくって)』と言われたんです。自分自身も写真の加工に限界を感じて、そこから抜け出したい思いはあったんでしょうね。その日からカメラを置きましたね。でも、何かをつくるにしたって何もないじゃないですか。それで小澤さんに相談したら『望月さんは表現しなくてもいいから』って言うんです。そんな難しいお題をどうしようって、しばらく頭を悩ませていました」。

 望月さんにとって何よりの財産となったのは、滞在制作で訪れるアーティストたちとの交流だった。作品が完成するまでの様子を間近で味わうことができ、自作についての相談もすることができた。そうしたなかで、「自分で表現しなきゃいいんだ」と風を扱った作品の制作を発案。

 そのときに発表した《大地への恵み》は、自身の茶畑の中に茶刈袋で高さ4メートルほどの風車を20体制作したインスタレーションで、風を受けると回転する仕掛けを施し、意のままには操ることのできない自然の存在を可視化した。

「最初に試作を展示してみたとき、自分でもなんだかしっくりこなかったんです。妻から『お父さん、あれでいいの?』と言われて、展示期間前に全部倒して組み立て直しましたね。妻に『アートをやりたい』と相談したときに、『ひとつだけ条件がある』と提示されたのが『中途半端なことはしないでほしい』というお願いでしたから」。

富士の山ビエンナーレ2016で発表された《大地への恵み》

 そこから作品制作は中断していたが、続く2018年の同ビエンナーレでは、新作2点を出展。使い終えた農薬の瓶に野菜を植えたインスタレーション《Ue》は「植え」と「飢え」の­ダブル・ミーニングとなっており、近代農業の光と影を表現した。そして、役目を終えた茶葉刈り取り機の刃を組み合わせたインスタレーション《其の後》では、引退が近づく自身の姿を茶葉刈り取り機に重ね合わせた。1日2度、エンジンを作動させると大きな音を立ててメリーゴーラウンドのように回る作品に、鑑賞者はどんな思いを巡らせたのだろうか。本作は、2022年に沼津市内のギャラリーが開催した公募展でグランプリを受賞したことで、同年10月には初となる個展を開催することができた。

富士の山ビエンナーレ2018で発表された《Ue》
富士の山ビエンナーレ2018で発表された《其の後》

 農作業や日常生活で出た資材・廃材等を取り入れた作品をつくり続けてきた望月さんが個展の中心に据えたのは、その月に90歳で他界した母親を自宅で看取るまでの介護記録だ。2009年から妻と二人三脚で献身的な介護を続け、亡くなる1時間前に母が発した言葉「気分は上々」を個展のタイトルに選んだ。

 「この部屋で祖父、祖母、父と看取ってきて母で4人目です。母は大好きなカルピスを口に含んだあと、『おはよう、気分はどうです』と尋ねたら、雨が降っているのに『いい天気だね、気分は上々』と俺の手を握りながら息を引き取っていきました。母の遺品をトルソーに埋め込んで並べました。夏になると風鈴をつけた部屋で食事をしてたから、作品の遠くには風鈴を置いてみたんです。なんとなく風鈴の音が母を天国へ導いてくれるような気がしてね。会場では泣いてる人もいましたよ」。

母の最期を綴った作品《気分は上々》

 本作を最後に制作の手を止めることも考えたが、近年はカンヴァスにチューブから絞り出したアクリル絵具を並べ、アクリル板で縦や横に払うという独自の技法による絵画制作にも挑戦するなど、未だその創作意欲が尽きることはないようだ。

 「やっぱり農業が、俺の人格形成に大きく影響しているんですよね。植物を育てるってことは、誤魔化しや言い訳が効かないし、そういうところで正直に向き合う仕事をしてきたからこそ、それが染み付いちゃってるんですよね。人間関係や職歴、学歴なんて、農業やってる人たちはみんな同じで関係ないし、それを物差しにする人なんていない世界なんです。だから、俺はいつまでも正直に作品制作をしていきたいんですよね」。

 望月さんが生み出す作品は、「半農半芸」なんて言葉では気軽に表すことができない。美味しいお茶をつくるには肥料設計が必要なように、何か物事を大成するまでには下準備がつきものだ。でも、自然が決して僕らの意のままにはならないように、僕らがやり遂げたいことも、必ずしも「芽」が出るとも限らないわけだ。それでも人生は続いていくし、まさに望月さんの言うように僕たちは「生きて」いかなければならない。やり続けても、大輪の花は咲かないかもしれない。ひょっとすると、芽すら出てはくれないかもしれないけれど、それでもなお、目指すべきものに向かって情熱を注ぎ込むことは僕らにできるだろうか。そんな覚悟を望月さんの表現は、僕に教えてくれるのである。

制作中の絵画
自作を前に語る望月さん

編集部

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