櫛野展正連載「アウトサイドの隣人たち」:あの味を忘れない

ヤンキー文化や死刑囚による絵画など、美術の「正史」から外れた表現活動を取り上げる展覧会を扱ってきたアウトサイダー・キュレーター、櫛野展正。2016年4月にギャラリー兼イベントスペース「クシノテラス」を立ち上げ、「表現の根源に迫る」人間たちを紹介する活動を続けている。彼がアウトサイドな表現者たちに取材し、その内面に迫る連載。第54回は、記憶をもとに食べたものを描き残し続ける小林一緒(こばやし・いつお)さんに迫る。

文=櫛野展正

小林一緒さん
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 7メートルの壁面に飾られた100枚の作品。イラストで日々の食事を記録した絵画だが、1枚1枚の余白部分には食事の感想や使われた食材まで丁寧に記されている。これらの作品が作者の記憶をもとに描かれていることを知ったとき、鑑賞者は感嘆の声をあげていたようだ。本作が展示されていたのは、オーストラリアのオルベリーにある現代美術館Murray Art Museum Alburyで、2021年11月から開催された企画展「SIMMER」での出来事だった。アーティストや料理人など、世界中から11組のアーティスト・コレクティブが出展する中で、ただひとりの日本人として注目されていたのが、埼玉県三郷市在住の小林一緒(こばやし・いつお)さんだ。

「SIMMER」の展示風景より Photo by Jeremy Weihrauch
「SIMMER」の展示風景より Photo by Jeremy Weihrauch

 1962年生まれの小林さんは、今年還暦を迎えた。以前は高齢の母親と2人暮らしをしていたが、2年前から母親が老人施設へ入所したため、市内の一軒家で福祉サービスの支援を受けながら、ひとり暮らしを続けている。小さい頃から絵を描くことは好きで、学生時代は美術部に所属した。その時に描いた油彩画は、いまも小林さんのベッドの向かいの壁に掛けられている。高校1年生で美術部を退部してからは、近所の喫茶店でアルバイトに精を出した。食べることが好きだった小林さんは働いているうちに、次第に飲食業界へ憧れを抱くようになったようだ。高校卒業後は都内の調理師専門学校へ進学し、その後は調理師として市内の蕎麦屋で働き始めた。

 「20歳から38歳まで18年働きました。出前持ちから頑張って、『いつか自分の店持ちたいな』なんて夢ばっかり見てたけど、途中で気力が無くなっちゃったんですよ。お蕎麦屋さんも途中で店閉めちゃて、『もう一度開店するから』って言われたんだけど『俺はもういいや』って辞めちゃいました。結局、挫折しちゃったんですね。その後、近所の老人ホームの栄養課に2年、三郷順心総合病院(現在の三郷中央総合病院)で5年。病院では150食とかつくってて、どっちも小学校の給食センターみたいな職場でしたね。まぁ、俗にいう人間関係のトラブルで辞めちゃいましたけど」。

病院で働いていた頃の作品

 そんな小林さんが、食事の絵を描き始めたのは18歳の頃だという。当初は、家に帰ってから食べた物を思い出してメモに残しておく程度だった。「ただの日記帳代わり」と言うが、そのメモには使われていた食材や盛り付け方、料理の感想に至るまで忠実に再現されている。何という記憶力なのだろう。それが26歳のときからは、家にあったルーズリーフバインダーに突然書き溜めたメモを清書して絵を描くようになり、その行為を35年ほど経った今でも続けている。

分厚くなったバインダー
うな重も細かなディテールまで描かれている

 「『日記書いても飽きちゃうんで、絵描いて残しとこうかな』って思って、ちっちゃい絵から描きはじめて、そのまんまずっと今も描いてます。テレビ観てて、人が食べてるものを『美味しそうだな』って思うけど、絵を描くのはやんないです。あくまで自分で食べたものだけ。忘れたものは仕方ないけど、余計なものは描きませんね。色なんかは、適当に自分でこんなもんかなと。ただ赤を白にしたり、黒を黄色にしたりはしませんよ」。

 誰に見せるためでもなく、ただ自分のためだけに描いている絵画だが、小林さんは、弁当箱の蓋を開閉できるようにするなど、絵の中に仕掛けを施すこともある。これまで描いた作品は、優に数千枚にのぼる。老人ホームや病院で働いていた頃は、自分がつくっていた献立を記憶し、帰宅してから正確に描きうつしていた。なかにはメニューがなくなったり、閉店したりした店舗もあり、ある意味で当時の食文化を伝える貴重な資料にもなっている。また、小林さんの絵には、生ビールや焼酎などのアルコール類もよく登場する。やはりお酒は相当好きなようで、病院で働いていた頃、飲みすぎて膵臓を壊し何回か入院したこともあったそうだ。日々の食事を楽しみながら、調理師として順調な人生を歩んでいた小林さんだが、飲酒が原因で、転機が訪れる。

 46歳のとき、アルコール神経炎で歩行困難な状態となり、生死の境をさまよいながら奇跡的に一命を取り留めたものの、歩行障害が残ってしまう。入院やリハビリを経て、車椅子から杖をついて何とか歩けるようになった2015年1月に、僕は小林さんと出会った。そこからもう7年もの付き合いになるが、自宅の居間の一角に座り込んでいた小林さんは次第に介護用ベッドへ移り、介護度も上がった現在は、ホームヘルパーに頼らなければならない生活を送っている。ベッドの上から移動することも困難なため、大好きな外食もできなくなり、毎日の食事はもっぱら配食サービスやヘルパーに買ってきてもらったコンビニの弁当を食べる状態だ。それでも、小林さんは絵を描くことをやめようとはしない。

2015年当時の小林さん

 アウトサイダー・アートの作者には、人生におけるなんらかの災難がきっかけとなり、創作を始める人が多い。小林さんの場合、特筆すべきは障害を負う以前から制作を続けていることだ。近年では、食材を箸で掴んだ構図の絵を描いたり、飛び出す絵本のような立体的な仕掛けにしたりと制限された環境下でも工夫を施し、黙々と制作を続けている。僕のアートスペース「クシノテラス」がニューヨークのアウトサイダー・アートフェアへ出展した2020年には、小林さんの絵は大きな話題を呼び、スイスのアール・ブリュット・コレクションで展示されたり、世界各国のコレクターが作品を求めるようになったりと、今やその人気は世界へ広がっている。それにしても、なぜわざわざ絵で描いているのだろう。何度もこの質問を投げかけてきたけれど、小林さんは決まって同じ答えだ。

飛び出す絵本のような仕掛けが施された作品

 「例えば『わかめうどん』とか、中に椎茸が入ってるやつがあるんですよ。ほら、写真で撮ると椎茸が隠れて見えないでしょ。自分は絵を描くときに、椎茸を移動しちゃえばいいんですよ。そうすれば全部の食材が見えるからね」。

 料理人だった小林さんは、料理だけでなく、一つひとつの食材さえ愛おしく感じている。それは思うように身体が動かせない今でも変わることはない。大好きな食材をすべて描くために、上から見た構図を発明し、絵を描き続けているというわけだ。そして、小林さんにとってはそうした日々の制作こそが、自身の存在をこの世界につなぎ溜めておくための手段であり、無作為に過ぎゆく時間にベッドの上から立ち向かっていくための術なのだろう。

 帰り際、文房具やメモ帳であふれた雑多な机の上には、吸い殻が溜まった灰皿と缶ビールが紛れ込んでいた。「コンビニの兄ちゃんにこっそり配達してもらってるんですよ」と少年のような顔で小林さんは微笑んだ。