色鮮やかなプラスチックの塊でつくられた仮面や甲冑のような作品群。昨年末、静岡市内にある「静岡市文化・クリエイティブ産業振興センター(CCC)」で杉澤佑輔(すぎさわ・ゆうすけ)さんの個展が開催された。近づいてみると、水鉄砲の玩具やホウキや靴べらといった日用品など、すべてが既視感のある素材で構成されている。どうやら実際に身につけることもできるようだ。
杉澤さんは、1982年に静岡県沼津市で2人兄弟の次男として生まれた。小さい頃は、サッカー選手になることを夢見て、小学校4年生から中学2年生の終わりまでボールを追いかけた。友だちに誘われてスケートボードを始めたのは、14歳のときのことだ。
「当時は、近所の中央公園が唯一自由にスケボーを楽しむことができる場所だったんです。公園には高校生や社会人のスケーターが集まっていて、一緒に走るようになりました。夜になると、静まり返った駅前をみんなで駆け回るんです。そんな毎日を送ってたんですけど、教員をしていた母親からは一度も『勉強しろ』なんて言われたことがありませんでした。でもやっぱり、受験のときも朝までスケボーしてるぐらいだったから高校受験には失敗しちゃいましたけどね」。
周囲の友だちは受験や就職などで次第にスケートボードを止めていったが、杉澤さんだけは決してボードを手放そうとはしなかった。携帯電話やインターネットも現在のように普及していない時代、スケボー仲間から得る情報だけが貴重な情報源だったようだ。スケートボードは、ボードさえあれば他には金銭的負担がかからないため、経済格差が障壁にならない種目となっている。「公園に集まっていた人たちって、片親だったり不登校だったりと特殊な環境の人たちが多くって、なぜかその場所が自分にとっては居心地が良かったんですよね」と当時を振り返る。再募集で合格した高校でも、相変わらずスケボー中心の生活だった。「クラブ活動が必須だったんで、一応は囲碁将棋部へ入っていました。もちろん実体なんてなかったから、いまでもルールなんて分かりません」と笑う。
ちょうどその頃は、スケーターのストリートカルチャーと裏原ブームがリンクして、スケートボードブームが巻き起こっていた時代で、マーク・ゴンザレスらのプロスケーターが、アパレルブランドやスニーカーブランドとコラボすることで、そうしたブームに一層拍車をかけていった。杉澤さんは高校卒業後には、スケーターの先輩たちと同じように上京し、専門学校へ通い始めた。
「スケボーがしたくて上京したんですけど、その頃から絵を描くようになりました。でも、どうしても誰かの真似事のようになってたんですよね」。
そう語る杉澤さんにとって転機となったのは、テレビ番組の企画に出演したときのこと。イエス・キリストの誕生を祝った東方の三博士をテーマとした作品制作を依頼され、他の出演者が宗教画を描くなかで、「子供産まれたんなら、玩具でしょ」と100円ショップなどで売っている安価な玩具を使ってロボットをつくったようだ。
「専門家の人たちは苦笑いしていましたけどね。それから精力的に作品をつくるようになったんですけど、作品を保管する場所も東京だと大変なので、専門学校を卒業してからは3年ほどして、沼津へ戻ったんです」。
スケボー仲間の紹介で、早朝から沼津の魚市場でアルバイトとして働いたあとは、作品制作やスケートボードに没頭した。しばらく働き続けたあと、再び友だちに誘われるがままに、ホテルで音響の仕事やラジオ局のディレクターなどの仕事に5年ほど勤務した。そこで音響機材の使い方や技術を覚えて、音楽制作も自分でするようになったようだ。勤務していたホテルが撤退したことを機に、知人から再度声を掛けられ、今度は家具や建具の表面に重ね塗りを施したり、塗膜を故意にはがすことによってアンティーク風に仕上げるエイジング塗装の仕事に従事。仕事で全国を飛び回るなかで、各地のスケボー仲間とも交流を深めることができるようになっていった。28歳のときには、高校の同級生と結婚し、やがて3人の子宝にも恵まれた。現在はエイジング塗装の仕事も続けながら、設備屋の業務にも携わり、空き時間にひとり作品制作を続けている。自宅の最上階を案内してもらうと、これまでつくった仮面や素材となる玩具が床中にあふれていた。
「玩具って、大人になったいまでも格好いいなと思うんですよね。とにかく格好いいものを使って、格好いいものをつくりたかったんです。やっぱり、子供の頃に観ていた戦隊モノやロボットアニメから影響を受けていて、変身への憧れがあるんですよ。夜店で売ってる仮面だけじゃなくて、妖怪など土着文化の影響も仮面制作の理由としては大きいですね」。
ルミネのアートアワード『LUMINE meets ART AWARD 2017』では、6歳のときに描いていた絵を、30年後に立体化した作品でグランプリを受賞。大人になっても子供の頃と何も変わらない自分を発見することができたという。杉澤さんによると、小さい頃は具現化できなかったものの、大人になって様々な技術を覚えてくると、それが作品制作にも活かせるようになったようだ。
「子供が産まれたときに就職活動をして、何十件か受けてみたけどすべて落ちちゃったんです。だから、未だ肩書きというものを持っていません。『お父さんって何してる人ですか』と聞かれたら『オモチャでお面をつくっている人です』なんて言っても、理解してくれる人はいないでしょうしね」。
仮面だけでなく、絵を描いたり音楽や詩、そして映像をつくったりと杉澤さんの創作の範囲は広い。壁に掛けられた抽象画は、スケートボードのトリックをメイクするまでの連続写真のようなイメージだ。これらの絵を見るだけでも、スケートボードを中心とした生活のすべてが、杉澤さんに影響を与えてきたことがわかる。「いろんな顔を持っているけど、何者でもないんです。ずっと自分を生きている感じですね」と語る。
スケートボードは、もともと路上で自由に滑って楽しむことから始まったスポーツであるために、まず路上で滑り、認められることが前提になっている。それ故、スケーターたちは自らの技を撮影し編集したり、ときにはBGMをつけたりして自身の技を披露していく。つまり、こうしたストリートで育んだDIYの精神こそが、杉澤さんの創作の原点となっている。そして、本来は滑ることを前提としていない路上において、上手い下手よりもハンドレールや縁石の上をどのように滑走していくか、要するに路上を再解釈していく視点が問われるという。そうした街の切り取り方を自然と体得してきた杉澤さんが、現在玩具や日用品を再構築した制作を続けていることには納得できる。
杉澤さんの仮面を眺めていると、2010年に他界したグラフィティ・アーティストでラッパーのRAMMELLZEE(ラメルジー)を思い出す人も多いことだろう。ラメルジーがニューヨークの路上で拾い集めた日用品と自らの肉体を組み合わせ、「Garbage God(ガベージ・ゴッド)」と名付けたゴミの神々を創造したように、杉澤さんは安価な玩具を集めて異形の神々を創造した。異形の神々を民俗学者の折口信夫は、「マレビト」と定義したが、マレビトは共同体に属さない異質の存在だからこそ、ある種の力を持っていると思われていた。ストリートに目を注ぎ続けた少年は、大人になったいまでも頭に浮かんだ制作衝動を形にするため、たったひとりで制作を続けている。人生は、まだまだ続いていく。たとえ転んで満身創痍になったとしても、すぐに立ち上がって滑り続けていくことだろう。それが杉澤佑輔という男なのだ。