「現代人は過去を感傷するだけでは生きてゆけない。過去は、道具である。人は、過去の力を借りて現在から自分を守ったり、現在を強化することで、過去の幻想から自分を守ったりする」──寺山修司『ぼくが狼だった頃』
縄文遺跡をモチーフにした美術館
青森県立美術館は、行くとその建物とスケールに圧倒される美術館である。外観は真っ白で、四角くて、冬に車で走っていたら、うっかりすると見逃してしまいそうな建物であるが、中に入ると、オシャレというか、ゴツい。壁が非常に土っぽく茶色いのだ。白やガラスを駆使した透明感のある美術館とは違う、このゴツさこそが、この美術館の稀な魅力である。
建物の中はじつに深く、外見の印象より遥かに天井の高い空間がある。「外からはそうは見えないが、中に入ると深い」という驚きは、青森で何度も経験するが、それを演出していると言ってよい。異様に高い天井の空間に、シャガールの幅15メートルにもなる 《アレコ》という作品が鎮座している。バレエの背景画として作られた作品で、このデカさが堪能できる場は少ない。例えば国立新美術館の企画展示室1の天井高は約5メートル、企画展示室2だと約8メートルで、それでもそこそこ大きい印象だが、《アレコ》の展示室は19メートルである。
デカいというのは、スゴいことで、アメリカの抽象表現主義が覇権を握ったのも、単純に「デカい」絵だったことにも起因する。絵があまりにもデカいと、人々はその絵を鑑賞したときに、これまでにない経験をし、感覚を抱かされることになる。とくに、ニューマンやロスコの絵の場合、崇高さや畏怖の念まで抱かされる部分もあった。ロスコの絵などは、ネットの画像で見ていれば「ペイントのソフトでつくれるのではないか」と思われるぐらいで、凄さが何もわからないが、実物の前に立てば、圧倒され、畏怖的な感情を覚えざるを得ない。物理的な大きさが、人間の本能的な部分に作用するのだろう。実際、ロスコは、神話に傾倒しており、人間の通常の経験を超えた外部に存在する、神や自然などの人間を凌駕する凄みを体験させようとしていたはずだ。
デカい絵をたくさんつくれたのは、アメリカという、広い土地のある新天地という物理的環境に由来する。単純に、安い値段で大きいスタジオが確保できるのだ。アメリカは、建国当初は、ヨーロッパから見れば、文化も歴史も伝統もない野蛮な土地のように見えていたわけだが、その条件を逆に活かして戦後には美術の覇権を握ったわけである。
青森県立美術館のアレコホールにも、それ以外の部分にも、このような畏怖の感覚を促す力が宿っている。人間を超えた物事の大きさへの感覚を促すようにできていると言ってもいい。
それは、美術館の外に広大に広がる自然にも抱かされる感覚である。
気候変動の時代を生き延びた縄文人たちの創造性
この美術館は、世界遺産にもなった、縄文時代の遺跡・三内丸山遺跡の隣につくられている。美術館の建っている場所にも遺物が大量に埋まっていて、発掘作業が行われていた。美術館には、遺跡発掘の「トレンチ(壕)」を模した部分もあり、「地下」深いのも、遺跡を意識してのことである。
設計者の青木淳は、三内丸山遺跡の隣という立地の条件を明確に意識している。「環境を破壊しなから収穫するという側面をもつ弥生の農耕のやり方に対して、縄文の農耕は多品種で、自然の営みや循環に調和、共存しうる方法ですから〔引用者註、栗や漆の畑をつくっていたことがわかっている〕、われわれにとって学ぶべさ点が非常に多いのです。このように縄文時代に対する認識を一変させ、青森の人たちのコンプレックスを払拭してくれたのが、この三内丸山遺跡なのです」「この美術館は遺跡を意識せざるを得ない背景をもっています」「発掘している現場そのものを美術館にもってくることはでさないかと考えました」。(青木淳「最近の仕事」)
ここでは、青森の人々のシビックプライドやアイデンティティを再編成しようという意図も見える。が、それは置いておく。
筆者は昔、三内丸山遺跡を訪れて、深い感動を覚えた記憶がある。ネットで写真を見ていたときとはまったく異なる、現場における畏怖的な体感があった。当時、妻が妊娠していて、子供が生まれる直前で、色々と不安を抱えていたときだったが、「こんな環境で、縄文時代の文明で、1700年も生をつないだのか」と、その労苦を想像し、「彼らにもできたのなら、自分にもできるだろう」と思えたのだ。紙おむつも、哺乳瓶も、体重計もない時代に、産んで、育ててということを果てしなく続けてきた人類と言う生命の流れからくる、崇高さのような感覚がそこにはあった。
この連載で「縄文」を繰り返してきたことにも、わけがある。
縄文海進という現象に、縄文人たちは出くわしていた。縄文時代に地球温暖化が起こり、海面が上昇し、平地がどんどんなくなるという、現在の我々が直面しているような気候変動の危機を経験し、生き延びてきたのである。
民族学者や分子生物学の本を読んでいて驚いたのは、縄文人たちは海洋交通を得意としていたということだ。海面が上昇し平地が潟などになっていき、そこに豊富な魚介類が育ったので、彼らは海に適応せざるを得なくなった。先人たちが環境の変化に適応し生き延びていたという事実は、気候変動などの危機の時代に生きなければいけない私たちを勇気づける部分がある。
この5回の連載で、気候変動や戦争・AI化などの環境の変化による危機の時代を生き残るための「創造性」と、縄文を結び付けてきた。それは、縄文人たちが気候変動に適応し、変化し、生き方を変えて、そして生き残って生をつなぎ、それがおそらくは自分たちにつながっているという事実に目を向け、その姿勢を継承することで、未来の危機に対応する構えを持てるようになるのではないかと思ったのだ。
環境の変化を鋭敏に感じ(そうしなければ生き残れなかった)、変化し適応し、その結果、栄え続けた縄文時代の創造性というものを現在に引き継ぎ、新しく創造することで、人類が生き延びる道を探ることができるのではないか。「縄文」というアイデンティティを、青森の人々がプライドを持って受け継ぐことで、危機の時代を生き延びるひと一つの手本として、最先端に躍り出てほしいのだ。
岡本太郎は、縄文や東北に、システム化し複雑化した文明とは異なる、生命の根源、原初的な生の噴出を見た。もちろん、それは重要な価値である。しかし、それだけでは、もう足りない。文明やシステムに「反する」「周縁」「生命力」を擁護するだけでは、足りないのだ。科学でもAIでもインターネットでもなんでも、境界なく貪欲に吸収し、生き残るために利用するような、ブリコラージュ的で折衷的な生命力こそが、危機の時代には必要なのだ。
本連載は、この5回を通じて、青森の美術館5館を紹介すると同時に、そのような岡本太郎的な縄文観を、危機の時代を生き延びるための創造性に読み替え、青森の現代美術が今後、世界を救いうる何かを生み出す可能性に期待を賭ける試みをしていた。もちろん、岡本の縄文観、「縄文と弥生」式の対比に批判があるのは承知のうえでだ。縄文ナショナリズム、縄文スピリチュアルがもたらすかもしれない危険も、無論、承知のうえでだ。
縄文と美術とサブカルチャーを横断する美学
この美術館は、展示室が整然と区分けされているのではなく、それぞれの展示室がつながりあっていて連続性があるうえに、迷宮のようなつくりになっている。安定した秩序やシステムの感覚ではなく、未知の空間を手探りし、環境それ自体への鋭敏さを高める状態に、鑑賞者はならざるを得ない。
「環境」を意識させ「境界がない」ことこそが青森の美術館の特徴だと述べてきたが、青森県立美術館もそうである。ジャンルや、価値の序列なども、所詮は文明の中での「システム」のようなものでしかなく、本当に本質的な違いがそこにあるのだろうか? という問いこそが、その設計の中に読み取られるべきだろう。従来のシステムによる文明の進展の結果危機を迎え、システムを作り直し、様々な領域を超えて「つながる」必要のある状である現在、人々が無自覚に閉じ込められている思考の「枠」を超えていくように促す必要がある。そのように人々を開かせる機能が、この美術館にはある。
例えば、成田亨作品がほぼ常設に近いかたちで展示されていることもそれを意識させるだろう。一般的に成田亨は、『ウルトラマン』や怪獣のデザインで知られている、「特撮」「サブカル」「オタク文化」の人である。だがいっぽうで彼は武蔵野美術大学を出た彫刻家でもあり、当時の現代美術の影響を受けており、風神雷神などの伝統的な意匠も作っている。では果たして彼は「何」の人なのか。ジャンルで区切って理解するのは、たんなる知的な怠惰に過ぎないのではないかと、展示物を見ていると思わされるのだ。
そういえば、岡本太郎は映画『宇宙人東京に現わる』のパイラ星人をデザインしており(あまり良いものではないが)、特撮文化や戦後に発展するサブカルチャーのなかに、積極的な可能性を見て、横断していた人物だった。彼は「縄文の美」を日本美術に位置づけた人物としても知られているが、サブカルチャーと美術と縄文を繋ぐ芸術観をおそらくは持っていた。そのような人物として再評価されるべきだろう。
成田亨を担当する工藤健志学芸員が手掛けた展示の内容や、彼の書いた文章を精査すれば、きっと、縄文、美術、サブカルチャーを横断するような、芸術観・美学を提示しているのではないかと思うのだが、それをまとめる作業までは力及ばず行えなかった。でも、誰かがやった方がいい仕事だと思う。むしろ、機会があれば、やりたいぐらいである。
「アオモリ・ヒュッテ」と「あおもり犬」──奈良美智作品
さて、話を美術館の中に戻すと、展示物のなかで一番大きな印象を受けたのは、奈良美智の《アオモリ・ヒュッテ1》《アオモリ・ヒュッテ2》だった。
「ヒュッテ」とはドイツ語で「小屋」を意味するが、展示されているのは言葉の印象が醸し出すオシャレな小屋ではなく、青森の奥の方に行くと建っている(ような古い)小屋である。元々はソウルでの展覧会の会場内で展示された「ソウル・ハウス」の材料を利用して制作されたという。美術館の外に行けば建っている、美術的に価値が高いとは一般的に思われていないものに似たものを、美術館の中に持ち込み、ありがたいものとして展示する、その入れ子状の価値転倒の大胆さに眩暈がしそうになった。もちろん、色が塗られていたり、絵が飾ってあったりしていて、「こういう装飾をすればオシャレになるよ」という提案であるとも見えるし、あるいは日常的に目に入っているものにちゃんと価値を見出すべきである、というメッセージであるようにも見える。さらに、それらに価値を与えよう、という愛郷心の発露のようにも見える。この、建築との関係による入れ子上のユーモアの感覚の方が筆者にはインパクトが強かった。
奈良美智と言えば高さ8メートルを超える《あおもり犬》が本美術館でもっとも有名だと思われるが、この犬は、左右をコンクリで固められ、文明の秩序の中で圧し潰され、意気消沈しているようにも感じられる。それは屋外にある八角堂の中に展示されている《Miss Forest / 森の子》」と対になっているようにも感じられる。「森の子」の展示されている空間には天井がなく、空の無限の彼方まで伸びていきそうな可能性があるように見える。この両者にも、「アオモリ・ヒュッテ」と似た、美術館が体現する「人工性」「人間がつくった価値の序列」に対する批評性が籠められているようにも思われる。
危機の時代を生き延びるために
美術館の裏手に回ると、縄文遺跡の「トレンチ(溝)」を模した空間に出るが、筆者が行ったときには、銃声を思わせる音が、遠く、低く鳴っていた。すぐ近くに陸上自衛隊青森駐屯地があるので、その音なのだろうか。ちょうど、津軽海峡をロシアの船が通ったというニュースが流れた直後で、少しばかり緊張感があったことを覚えている。
この音が響いていると、トレンチは、塹壕のようにも思われ、美術館はトーチカのようにも感じられてしまう。
普通、美術と軍事は、遠いもののように思われるが、それらが重なるという見立てもまた一興である(設計者の青木が、そのような環境との連動までを意識したのかはわからないが)。
冷戦以後、戦争と、文化芸術は重なり合うものになってしまったな、という感慨が、ふと胸をよぎる。
思えば、青森には、日米の軍事施設や六ケ所村がある。そのことは『青森県立美術館コンセプトブック』にも掲載されている。
ウクライナとロシアの戦争で、エネルギーが安全保障(国防)上重要であることを改めて意識させられていると思う。それは、軍事戦略や外交と直結したものである。岸田政権は原子力発電を再開し増設する方針を述べている。福島での惨禍を経て、なお、我々はリスクを込みで、そのような賭けをしなければならないようだ。冷戦以後の西側の防波堤として翻弄され、また利益も得て生き延びてきた日本の哀しさもまたここにはあるように思われる。
だが、だから人間や権力、科学はダメだと反旗を翻し、文明やテクノロジーを捨てればよい、生命や自然を大事に、というカウンターカルチャー的な理想主義だけではもうダメなのだ。それでは、我々は生き残ることが困難な状態に追い詰められており、それだけではたんなる現実逃避に過ぎなくなってしまっているのだ。生き残るためには、自然や環境を意識するように変化しなければならないだろうが、緊迫する国際情勢のなかで生き残るための軍事も必要であるし、気候変動などを解決する科学技術も必要なのだ。その苦々しさ、苦しさも含めて、我らの時代の芸術をこそ、生み出してほしい。
青森の現代美術の起点にあった「自然/科学」「中心/周縁」などの、カウンターカルチャー的な態度「だけ」ではおそらくはダメなのだ。両者を横断し、境界を超え、生き延びるために、折衷されなければならない。これまでにない組み合わせ方をし、新しく創造しなければいけない。
青森の生み出す現代美術に、これから私たちが生きることになる危機の時代を乗り越える可能性を期待する。いままでにない未知の世界に勇気を持って堂々と乗り出し、新しい時代を健やかに生きる可能性を提案する、そんな美術が、旺盛な生命力で伸び伸びと成長していくことに期待している。