「エコロジー」というタイムリーなテーマは、幸福、医学、愛、宇宙、そして地球上の様々な地域といった、現代アートとライフとのつながりを示す森美術館のテーマ展の、20年というまだ若い伝統のなかで最新の主題である。エコロジーという言葉は、ギリシャ語の「オイコ(oiko、家)」に起源を持ち、とくに19世紀には「エコノミー(economy、経済)」と同義語として頻繁に使われた。どちらの用語も、特定の場所に「定住」または「棲息」する技術を示すという点で、同じルーツを共有している。この時代、西洋は自らを世界の中心とみなしていた。地球は、そこにあるすべての生命を含めて、継続的な地理的・経済的拡大の材料として見られ、そのために「関係性」に主眼を置いた生物学の新たな科学領域が、「ホーム」を理解するためのさらなる専門知識のレイヤーを加えた。
それから約160年を経たいま、エコロジーへアプローチする方法は複数存在するが、地球規模の環境危機は、純粋に生物学的な解釈を超え、経済、政治、社会関係、植民地の歴史などとのもつれ合いに焦点を当てることを私たちに余儀なくさせている。エコロジーに関する最初期の視覚表象のひとつであるエルンスト・ヘッケルの「生命の樹」は、ある基本的な両義性を理解する助けとなる。すなわち、この地球上の生物種が相互につながり合っていることと同時に、(知性とは何かをめぐる自己投影とともに)自らをこの樹の頂点に据えているという、人類の虚栄心を示しているのである。地球上のその他すべての住民たち──あるいは西洋のダーウィン主義における「資源」──にとって、数分おきに種が絶滅しているという事実を考えれば、この考えは誤りにしか見えないだろう。
しかし、エコロジーのとらえ方は、この「岩だらけの惑星」上のどの地理に位置しているかにも左右される。これは、今日世界最大の人口を抱えるインド出身の歴史家、ディペシュ・チャクラバルティが展覧会カタログで述べている通りである。そして、経済もまた、そこから決して遠い話題ではない。先住民のアーティストであるシェロワナウィ・ハキヒウィは、アクセスが困難なアマゾンの熱帯雨林で、自らの人々とともに生き続けることを願っている。その居住地は、壮大な生物多様性を有し大陸の肺として機能しているが、現在進行形の金採掘と森林伐採により崩壊しつつある。マルタ・アティエンサが地元の漁師たちと協働する、フィリピンのバンタヤン諸島に目を向けてみよう。そこでの循環経済的(すなわち持続可能な)ライフスタイルは、2つの側面から危機に立たされている。工業的な乱獲によって海の恵みが人々の基本的なニーズを満たさなくなっていること、そして、多くの東南アジアの海岸線と同様、観光産業が地元住民をさらに内陸へと押しやっていることである。
エコロジーと経済というトピックは、ニナ・カネルの彫刻インスタレーション《マッスル・メモリー(5トン)》(2023)においても共鳴している。北海道産の(ベトナムからの移民の人々によって洗浄された)5トンもの貝殻が、来場者の足で粉々に砕かれ、建築産業用のコンクリートへと生まれ変わる。ある種、軟体動物たちによってつくられた小さな建物である貝殻のひび割れの一つひとつが、東京の中心にある森タワーという、比べ物にならないほど大きな人工建造物の壁にエコーされている。ここまでに「周縁」地域における影響を述べてきた地球規模の環境危機は、日本においても認知されているが、つねに去ることのない地震の脅威による「安全」志向の陰に隠れている。それはさらに、声を上げる人が足りないということでもある。屋外が年々暑くなる(いっぽうで屋内では空調制御された涼しさが続く)という観測以外は、生の基盤が脅かされるような目に見える影響は現れていない。ダニエル・ターナーの壁面彫刻が接続する場所では、まさにそうした基盤が脅かされている。作家が「物質枯渇の地平線」と表現するこの作品は、アラン(インド)にある世界最大の船舶解体場で取り壊されている日本のケミカル・タンカーから調達した銅製の気圧計の埃で制作された。彼の無言で不気味な彫刻は、私たちの地球規模の現状における、(そして壁に磨き込まれた彫刻そのものの)あらゆる曖昧さを表現している。「先進国」が所有する有害な船舶は、北東部の海岸線で過酷な労働環境のもと解体される。このプロセスは、海岸線の海洋生態系を破壊するいっぽうで、急速に成長する地域経済を刺激する。このメカニズムは、(斎藤幸平などによって)気候危機の経済的外部化として説かれているものである──それは、出口のない迷宮なのであろうか?