ターナーの絵画をもっと知るための5つのキーワード

19世紀イギリスを代表する画家、ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー。その作品をテーマごとに展示するとともに、現代美術を併置する企画展「テート美術館 ターナー展――崇高の絵画、現代美術との対話」が国立西洋美術館で開催される。会期は10月24日〜2027年2月21日。産業革命によって急速に変革する世界においてターナーは何を見て、何を描こうとしたのか。本稿では、美術批評家/キュレーターの近藤亮介が5つのキーワードから、その思考の道程と現代におけるメッセージについて解説する。 ※10月24日24時まですべての方に全文お読みいただけます

文:近藤亮介

J.M.W. ターナー《月光、ミルバンクでの習作》(展示:1797) 板(マホガニー)に油彩 テート美術館 Photo by Tate

KEYWORD 1:崇高
自然表象から精神世界へ

 ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(1775〜1851)の作品は、しばしば「崇高(sublime)」と形容される。崇高とは、18世紀イギリスにおいて、「美(beautiful)」と対をなす重要な美的概念である。その起源は古代ギリシアのロンギノスによる『崇高について』(1世紀頃)にあるとされ、当初は弁論によって聞き手の感情を高揚させる修辞的技法を意味していた。ところが近代になると、崇高は自然の風景と結びついた美学の概念へと変容する。そこで決定的な役割を果たしたのが、エドマンド・バークの『崇高と美の観念の起源』(1757)である。

 バークによれば、美と崇高は対照的な性格をもつ。美は対象の小ささ、滑らかさ、漸進的変化などに起因し、愛や社交の情念を生み出す。これに対して、崇高は対象の曖昧さ、広大さ、無限などに起因し、驚愕や恐怖、そして自己保存の情念を喚起する。自然の風景に即して考えるなら、美は手入れの行き届いた芝生やなだらかな丘に、崇高は険しい山地や荒れ狂う海に喩えられるだろう。こうしたバークの崇高論の特徴は、五感を通じた感覚経験にもとづく生理学的な視点にあり、当時グランド・ツアー(イギリスで流行したイタリアに芸術や文化を学びに行く旅行)で上流階級の子息たちが経験したアルプス越えの感覚を呼び覚ますものであった。

 その後、18世紀末になると、崇高論の焦点は、外的な自然対象から内的な理性理念へと移行する。その契機となったのが、イマヌエル・カントの『判断力批判』(1790)である。カントによれば、崇高は自然そのものに存在するのではなく、それを経験する人間の心のうちにこそ見出される。自然の巨大さを目の当たりにして、私たちの想像力はその全体を捉えきれず挫折する。しかし、その限界を意識することで、人間は感覚を超えて無限を思考しうる理性の力に気づく。カントによって、崇高は自然の巨大さから、それに対峙する人間の精神的な作用へと転換したのである。

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー《日の出、岬のあいだのボート》(1840〜45頃) キャンバスに油彩 107×137.5×8.7cm テート美術館

 崇高の転換は、ロマン主義の芸術にも見ることができる。例えば、ウィリアム・ワーズワースは、崇高を「地球の表面に対する自然の最初の偉大な交渉の結果」と表現し、『序曲』(初稿1805)では、断崖が巨大な生き物のように彼を畏怖させた経験が語られる。対照的に、ウィリアム・ブレイクは、自然の再現を超えて、想像力によって開かれる幻視的世界を描いた。そしてターナーは、圧倒的な自然の姿を描きながら、晩年にはあらゆる形態を光のなかへ溶解させていった。さらに、20世紀アメリカのマーク・ロスコをはじめとする抽象表現主義の巨大な色面にも、自然表象を離れた精神的な崇高の展開を認めることができる。すなわちターナーは、バークの外的・自然的崇高と、カントの内的・精神的崇高との結節点にある。

KEYWORD 2:ピクチャレスク
無関心から共感へ

 ターナーを生んだイギリスは西洋絵画の先進国だったと思われるかもしれない。なるほど、ターナーの抽象へと向かう風景画は、フランスの印象派やアメリカの抽象表現主義の先駆とみなされることもある。しかし18世紀以前、西洋絵画を牽引していたのはイタリアであり、イギリスの風景画はまだ草創期であった。実際、イギリス人のあいだに「ランドスケープ・ブーム」をもたらしたのは、クロード・ロランやニコラ・プッサンに代表される17世紀のイタリア絵画である。グランド・ツアーに出た青年たちは、数多のイタリア絵画を母国へ持ち帰り、さらにその風景を自身の所有地で庭園として再現した。

 こうしてイタリア絵画を手本に、現実の風景を鑑賞したり、庭園をつくったりする習慣が広まった結果、18世紀後半のイギリスでは、美と崇高に続く第三の美的概念「ピクチャレスク(picturesque)」が確立される。その提唱者ウィリアム・ギルピンは、1770年代にイギリス各地を訪れ、旅先で見た風景を散文と素描で克明に記録し、出版した。ギルピンの旅行記は、出版直後から世間の注目を集め、新興中産階級を中心とするピクチャレスク・ツアーの流行を巻き起こした。

 ピクチャレスクは、一般に「絵画のように美しい」という意味を持つが、ギルピンによれば「絵画に相応しい主題となるような対象」を指す。そのもっとも重要な特質は「粗さ」であり、ぶらつく小作人、疲労困憊した馬、廃墟などが具体例として示される。このように、美的対象に対して実際的・道徳的な関心を差し挟まない心的状態は「無関心」と呼ばれ、やがて18世紀末になると、ピクチャレスク批判の根拠となる。例えば、ジェイン・オースティンの小説やウィリアム・クームの風刺詩『シンタックス博士のピクチャレスク・ツアー』(1809-11)では、思慮分別のある人物が、ピクチャレスクに感化された人物をなだめたり、皮肉を言ったりする場面がしばしば描かれた。

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー《風車と水門》(1811頃) エッチング、紙に水彩 177×258cm テート美術館

 そして19世紀半ばには、いよいよピクチャレスクが道徳的観点から再定義されることとなる。『建築の七灯』(1849)において、ジョン・ラスキンは、対象の形態や色彩といった外面的な性質に依存するピクチャレスクを「寄生的崇高」と名づけた。続いて『近代画家』第4巻(1856)では、過去の事物を現在の生活から切り離し、もっぱら視覚的な快を追求する態度を「低級なピクチャレスク」と呼んで批判するいっぽう、それら事物を現在の生活と関連づけ、共感を示す道徳的な態度を「高級なピクチャレスク」として評価した。その際に参照されたのが、ほかならぬターナーの描いた《風車と水門》(1811頃)である。

  両者を分けるものは、主題や技法ではなく、画家が対象にどこまで「共感」しているかである。ラスキンがターナーに見出したのは、廃墟や労働者を単なる視覚的な快として消費しない眼差しであった。畢竟、画家の仕事とは、目に映る世界の背後にある生を描き出すことなのかもしれない。

編集部

Exhibition Ranking