椹木野衣 月評第107回 佐藤直樹「秘境の東京、そこで生えている」展 無能(やっこ)の木
この絵を見たときに受ける一種異様な感覚は、画面から生命の気配がまったく感じられないことによる。むろん、絵といっても板に木炭を擦り付けただけなので、画面で命が躍動しているように見えたほうがむしろ変なわけだが、それにしても木や草、花を描いている以上、生命の気配が皆無というのはおかしなことだ。この印象は、植物が繁茂しているからには土があり、空気があり、風の流れがあるはずにもかかわらず、それなら本来、描かれてよいはずの生き物の気配がすっかり消されていることからきている。(図録での宇川直宏との対談で虫に言及しはするが)。例外的に木に生えたキノコ(菌類)が描かれてもいるが、花の交配を進める蝶や蜂、枯葉を住処とする甲虫やミミズ、それらを餌に森を飛び交う鳥たちの姿はここにない。ひと気がないだけではない。この絵の中の景色は生態系が壊れている。
だからなのだろう。佐藤の描く木や草、花は、どこか作り物のように見える。展覧会のタイトルにあるように、たしかに「そこで生えている」のだが、生態系の中での位置付けがない以上、個々の植物はどんなに隣接していても、たがいに孤立している。第2室の植物の立像がまさしくそうであるように。完全に孤立した植生など現実には存在しない。としたら、絵の随所で樹々が、いつのまにか付近の石や岩と一体化し、純粋な鑑賞のための、いわば「水石」化を施されているのも納得がいく。
そういえば、これらの絵に登場するもうひとつの要素である水も、地球上でもっとも古い物質のひとつで、鉱物を豊富に含む。つまり木が石となり、石が水となり、水が木に戻る。それが延々と繰り返される。しかし、そこに生きた時系列や場の変容をもたらす虫や動物、そして人はいない。一枚一枚のパネルを見たときの印象と、150メートルを超すという全体を眺めて歩いたときの印象にほとんど違いが感じられないのは、そのためだろう。そういう点では、第3室で画面に音や光、風、声を添えたのは、やはりこの絵にそぐわない。絵が舞台美術的な効果を上げてしまっているからではない。それで言えば、むしろ効果は上がっていない。画面と完全に分離してしまっているからだ。
ところで、この絵には見逃せない特異点がある。全体が自然観察の結果であるはずなのに、佐藤の引き出しの中にあったという鉱物標本が一瞬だけ顔を出すのだ。本人はそれを落ち度と感じたようだが、フロイト的に言えば、この「書き間違い」は佐藤の無意識への「否・認」となる。佐藤の描く木が「水石」を思わせるというのは先に触れたが、水石といえば、つげ義春の『石を売る』や『無能の人』を思い出す。つげ作品のきっかけは多摩川だが、そういえば佐藤も隅田川を書いている。それで言えば、佐藤の絵は観賞用の石となった「無能の木」かもしれない。
佐藤がグラフィック・デザイナーであることから、これらの絵がその職業的な意外性、長大で際限のないアウトサイダー・アート的な性質で注目されるのは、ひとまず仕方がないことだ。けれどもこの絵の特質は、おそらくそうしたわかりやすい導入のもっと先にある。
(『美術手帖』2017年7月号「REVIEWS 01」より)