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浮世絵から立ち上がる文化像 若山満大評「紀伊国屋三谷家コレクション 浮世絵をうる・つくる・みる」展

千代田区立日比谷図書文化館の特別展示室にて開催された本展は、江戸時代後期に浮世絵師たちのパトロンとなり、その制作に関与した三谷家コレクションを中心に、当時の様子や制作工程などを紹介した。「うる・つくる・みる」の3つの視点と、豊かな資料や作品群によって構成された浮世絵世界を、東京ステーションギャラリー学芸員の若山がレビューする。

若山満大=文

「第1章 浮世絵をうる -江戸の浮世絵ショップ―」の展示風景

浮世絵の「多層性」、あるいは亡霊としての版下絵

 千代田区立日比谷図書文化館で「紀伊国屋三谷家コレクション 浮世絵をうる・つくる・みる」が開催された。本展の大部分は、表題が示す通り、紀伊国屋三谷家という神田塗師町(現・千代田区鍛冶町2丁目)で金物問屋を営んだ商家の浮世絵コレクションで構成されている。幕末明治の浮世絵500点超、錦絵等を集めた画帖5点、版下絵を集めた画帖8点を含む三谷家コレクションは、2008年に千代田区指定文化財となっている。
 本展は浮世絵の流通(うる)、制作過程(つくる)、鑑賞と実用(みる)という3つのトピックに注目しながら、作品や関連資料を3章に分けて展示している。

 第1章で言及されたのは「絵草紙屋」と「地本問屋」の存在である。展示では、草双紙(小説)や音曲正本などの書籍とともに浮世絵が売られる様子を、北尾政美《地本問屋・和泉屋市兵衛の店先》(1797)などを例に示していた。店舗の近隣に住む武士や町人のほか、旅行者や参勤交代の武士も、国元への土産物として絵草紙屋で浮世絵を買い求めたという。その店先の佇まいは、同じく旅行者の土産物として買い求められた手彩色の鶏卵紙写真にも写されていた(《明治期の絵草紙屋》長崎大学付属図書館蔵)。

秋里籬島編『東海道名所図会』巻之六より、北尾政美《地本問屋・和泉屋市兵衛の店先》(1797)個人蔵
「第1章 浮世絵をうる -江戸の浮世絵ショップ―」の展示風景

 第2章の冒頭には、浮世絵の制作工程を示したフローチャートが掲示されていた。制作はまず、版元から絵師、版元への作画依頼から始まる。絵師から版元へ版下絵が提供されると、版元は版下絵を行司または名主に渡して検閲を受ける。改印を捺された版下絵を受け取った彫師は、絵の主線を掘り出した主版(おもはん)から、墨一色の校合摺(きょうごうずり)をつくる。絵師が校合摺に色指定を書き込んだら、彫師は指定された色の数だけ色版をつくり、摺師に主版と色版を渡す。摺師と絵師とのあいだで試し摺りと校正が重ねられ、完成した浮世絵は版元へと納品される。

歌川国芳 宮本無三四(校合摺) 1843頃 千代田区教育委員会(三谷家美術資料)
歌川国芳 宮本無三四 1843頃 千代田区教育委員会(三谷家美術資料)

 本章では完成した浮世絵と校合摺が対照されているのに加え、版下絵も展示されていた。ひとつの浮世絵が完成するとき、版下絵はその制作工程のなかで確実に消失する。主版をつくる際、版下絵は表面を下にして板に貼り付けられ、彫師はその版下絵もろとも主線を彫刻するからである。逆に、版下絵は現存するということは、企画された浮世絵がなんらかの事情で完成に至らなかったことを意味する。制作工程を知り、また“不在の浮世絵”を想像しながら見る版下絵は、単純な墨絵ならざる多層性を帯びて見えた。この失われるべき版下絵が画帖8冊分も残されているのは、紀伊国屋三谷家8代目・長三郎が歌川派の絵師たちと交流を持ち、ときにディレクターやパトロンしても制作に関与した特例的な存在だったことによる。

三代歌川豊国《役者見立里見八犬伝 里見治郎大輔義実 杉倉木曽介氏元》(1854〜60)(版下絵) 千代田区教育委員会(三谷家美術資料)

 最後の第3章では「みる―鑑賞と実用」と題して、多様な浮世絵が展示されていた。ここでは三代歌川豊国の「役者絵」や歌川国芳の「武者絵」のほか、ファッション誌的役割を果たしたという月岡芳年の「美人画」、旅行のガイドとしても利用された歌川広重《五十三次名所図会》(1855)などの「名所絵」、読み解きや切り貼りして楽しむ「おもちゃ絵」など鑑賞以外の用途を持った浮世絵を紹介している。また、こうした浮世絵(錦絵)の制作技術は明治時代の教材にも応用されたことが紹介されていた。その一例である「博物図」は動植物の図鑑のような役割を果たし、芳年の《教訓善悪図解 学問を励む書生 学問を怠る書生》(1880)などは道徳を図解する。いわゆる絵画的ー美的な価値だけでなく、浮世絵は常にそれ以外の多様な価値観や需要にも応えていた。

月岡芳年 教訓善悪図解 学問を励む書生 学問を怠る書生 1880 千代田区教育委員会(三谷家美術資料)
「第3章 浮世絵をみる -鑑賞と実用-」の展示風景

 都合172件の展示資料は、浮世絵を「多層的」なものとして理解する十分な質と量を備えていた。加えて本展の出品作は、8代目長三郎に供された摺りの上等な作品群であり、流通を免れていたため劣化や汚損が少ないのも特筆すべき点であろう。本展はどちらかと言えば小規模な展示であり、いわゆる人気絵師の回顧展のような華やかさはない。しかし、特殊な来歴を持った良質な作品群と非常に丁寧な展示構成は、大規模な浮世絵展以上の充実を感じさせるものだった。人によっては、本展の内容が今後の浮世絵鑑賞のよき指標となるかもしれない。特に筆者のような浮世絵初学者にとっては。

 さて、本来本稿はここで終わっていたのだが、信頼する編集担当者から「内容がオーソドックスなレポート然としていて面白くない」という指摘を受けたので続きを書くことにする。

 本展の第2章には「彫りと摺りの超絶技巧」と題した解説パネルが掲示してあった。ここに示されているのは、浮世絵の鑑賞一般において見るべきとされている、いくつかのポイントである。例えば、人物の生え際の一本一本まで緻密に彫り込んだ「毛割」、エンボス加工で模様やテクスチャを表現する「空摺」やその応用である「正面摺」、量産に熟練した技術を要するとされる「ぼかし」などである。要するに、ここでは浮世絵の価値判定基準の一例が示されている。筆者としては研究者や愛好家の視線がどこに注がれているか、あるいは浮世絵の定型的鑑賞を学べたのは有意義だった。こうしたオーソドックスを相対化するところから自由な鑑賞は始まる。

 定型的鑑賞態度を順守するのも「自由」であるし、定型的鑑賞からの距離と位置の取り方を自分で判断して決めるのもまた「自由」である。オーソドックスとヘテロドックスを選べる状態をこそ自由と呼びたい。展示においてひとつの価値観が明快に示されることは、鑑賞を「それ以外」の可能性へと開くことである。浮世絵の正統な見方を丁寧に説明することに徹する本展は、ややもすると「工夫がない」「斬新さに欠ける」と評されるかもしれない。しかし、工夫や斬新さだけが展覧会の価値ではないだろう。オーソドックスに徹することにもまた価値はある。たしかに面白くないかもしれないが、「面白かった」と言われることよりも「面白くなかった。なぜなら」の先を語ってもらえたほうが有意義ではないか。重要なことはひとつの立場に徹することである。そこに鑑賞者が「別の立場」をとる余地が生まれる。

 オーソドックスは立ち返るべき基本であると同時に、乗り越えるべき規範でもある。面白くないことは決して悪いことではない。そして、これは決して自己弁護ではない。

編集部

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