「しなやか」すぎ
「自然」すぎ
「身体的」すぎ、
銭湯みたいな幸せ
「展示室内では靴を脱いでご鑑賞いただきます」。
ピピロッティ・リスト展の展示室入り口にて、最初に靴を脱ぐよう促される。室内に設えられた絨毯やクッションを汚さないためのルールだろうか。若干の煩わしさと気恥ずかしさを覚えながら、靴を脱ぎ展示室に入る。
急いで、展示内容について概説しよう。造形物やモニター上映もあるものの、展示作品の多くがプロジェクションによる映像作品、あるいは映像の投影を含むインスタレーション作品である。また、映像のフレームは矩形とは限らない。最後の展示室では、大小のカラフルな映像が壁面、家具、雑貨、絵画など同一空間内のあらゆる場所に投影され、個々の作品の輪郭も曖昧だ。
そのため、鑑賞者は必ずしも定められた一点から正座してスクリーンに向き合うわけではない。ベッドに寝そべり天井の映像を見上げる、映像と映像のあいだをうろうろと歩き回る、自らスクリーンとなって映像を浴びる、といった具合である。さらに、多くの映像で、外部へと拡張しゆくイメージ(水中、風景、空、宇宙)と細部を接写するイメージ(体の一部や地面、草花へのクローズアップ)が繰り返し登場し、鑑賞者のスケール感覚をも自在に揺さぶる。
こうしたスケールの往還の只中に置かれた鑑賞者にとって、硬い靴底から足が解放されていることは少なからぬ意味を持つ。ピピロッティの作品の持ち味である触覚性をよりよく感知できるからだ。例えば、足元から伝わる柔らかな絨毯の感触は大きく映し出された花弁の、細やかな起毛を想起させる。あたかも、小さくなって花弁の上を歩いているかのようだ。こうして鑑賞者は、無尽に変化するスケール感覚と触覚性に誘われ、美術の鑑賞者から、晩餐の招待客、さらには花粉まみれの虫や川底で揺らめく水草というように、様々な人や生物へ変身を繰り返すこととなる。
また本展では、不特定多数による空間の共有についても意識せざるをえない。映像に見とれながら歩いていると、床に足を投げ出して座るほかの鑑賞者につまずきそうになる。慌てて周囲を見やると、ひとつのクッションをシェアして寝そべる恋人等もいる。見知らぬ他人のいる場所でありながら、各々が思い思いにリラックスした体勢をとりつつ、カラフルな映像の洪水に身をひたしているのだ。これは言うなれば、映画館よりも銭湯に近い公共空間である。映画館の観客は鑑賞中、同一のスクリーンのほうを見て静かに座り続けるよう促され、物理的身体は意識の外におかれる。しかし銭湯では、もっとも私的な姿の者同士が、一定の無関心を装いつつもお互い配慮し合い、かつ、自身の身体に集中することで公共空間のバランスを保っている。ピピロッティの展示室でも、これとよく似た身体意識、そして振る舞いを見てとることができる。最初に靴を脱がせるのは、偶然の符合だろうか。
さらに、ここでは誰もが弛緩した姿である点も重要である。本展において鑑賞者は、作品を前に必ずしも鋭敏に思考回路を巡らせなくても良い。むしろピピロッティの作品は、イメージに飲み込まれ惚けている無防備な身体をも許容する。この点も、銭湯と通じるのではないか。
とは言えいっぽうで、際立つ触知性や、公共空間における人々の振る舞い、その身体の無防備さ、すなわち銭湯性(?)から、彼女の表現を「理知的な言説や社会システムを超えた」「しなやか」で「有機的」かつ「ユーモラス」な表現だと、安易にまとめないよう注意が必要だろう。確かに、彼女の作品には、水、花畑、宇宙、身体など、「自然」で「豊潤」ながらも「超越的」で「混沌」とした──すなわちベタな「女性的」イメージ──が繰り返し登場する。そして、ピピロッティは、それらベタなイメージをあまりに色鮮やかに、あまりに過剰に差し出して見せる。さらに、あからさまな合成技術でつくられた映像であることも隠そうとしない。つまり、こういうことだ。女性の映像作家といえば、理論的であるよりも情動的で身体的、近代的な社会システムよりも自然や野生と共鳴する存在。そんな期待をピピロッティはあえて過度になぞったうえで、自身のつくり上げるイメージが「自然」どころか、まったくの人工物であることも含め笑顔で提示する。彼女の表現は、キャンプとも言える批評性に裏打ちされているのだ。作品に満ちる触知性や身体性の過剰さは、「しなやか」などの言葉を大きくはみ出している。
そして、この過剰さ、キャンプの感覚こそが、ピピロッティ作品を、ありふれたリラクゼーションやエンターテイメントと明確に区別している。月並みなリラクゼーションやエンターテイメントの場合、身体のイメージは、ある種、安定したかたちで共有される。しかし、ピピロッティは、「女性ならではの身体感覚とはこういうことかしら」とでも言わんばかりに、身体の内部──水着に隠された内視鏡カメラの映像や、「神聖」なる出産場面を「自然」の風景とともに見せる映像など──をも嬉々として見せる。そういえば、展示空間を仕切るカーテンもどことなく内臓のひだめいている。人々が期待する女性と身体性の交差を過激に突き詰めた結果、身体の内と外が反転してしまったかのようだ。映像を眺める目が膨張し、鑑賞者自身が眼底に降り立つ、そして、気づけば自分の目と他人の目が繋がっていてひとつの島となり、その島の浜辺に皆で寝転んでいる、そんな妄想が、圧倒的な多幸感とともに広がってゆく。
美術館の帰り際、公共と身体の関係が意外な方法で表現されているのに気づく。美術館前の広場に、白い下着が洗濯物のごとく並んでぶら下がっているのだ。その光景は、育児や介護の営みを想起させる。ピピロッティは、自立しえない身体や、それら身体をケアする人々をも射程に含み、その営みを開かれた場にて肯定して見せているのだろうか。作品のタイトルは《ヒップライト(またはおしりの悟り)》。ささやかながらもラディカルな啓蒙(enlightment)の光と言えよう。