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2020.8.16

いま問われる、写真とジェンダーの関係性。ダニエル・アビー評「New Photographic Objects 写真と映像の物質性」

埼玉県立近代美術館で、現代日本のアーティストによる新たな写真・映像表現に焦点を当てた「New Photographic Objects 写真と映像の物質性」展が開催中だ。「物質性」というテーマと背後にあるジェンダー意識について、写真研究者のダニエル・アビーが論じる。

「New Photographic Objects 写真と映像の物質性」展より、滝沢広 《Criminal Garden (2020)》(2020、写真奥)、《Mood of the Statue #2》(2020、写真手前)の展示風景 撮影=山中慎太郎
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「言わなくてもいいこと」の物質性

「New Photographic Objects—写真と映像の物質性」は男性作家6人(4人の個人と2人組)で構成された展覧会である。男性のみの構成からは、長島有里枝が今年刊行した著書『「僕ら」の「女の子写真」から わたしたちのガーリーフォトへ』 (2020、大福書林)で投げかけた「表現主体の性別は、アートの系譜にひとつのジャンルを築く根拠となりうるのか」 (*1)という問いを連想さぜるをえない。タイトルの「物質性」、あるいは「Objects」──長島の研究対象である、二元論的な従来のジェンダー観にもとづいて言うなら、この要素は「男性原理」に当てはまる。長島の著書では、彼女を含む潮流である90年代のいわゆる「女の子の写真」とそれを支えた言論に、女性に関する語り方の偏りがはっきりと見てとれるとされる。本展においてはそういった明らかなジェンダーにまつわる言論はないが、ないからこそむしろ本稿では、現在における写真と物質性をテーマにする展示が男性作家だけで構成されること自体が、どういう意味を持っているかを問いたい。

 さて、「物質性」という概念はどうとらえたらいいだろう。この展示の提案する物質性は、昨年同美術館で 開催された「DECODE 出来事と記録―ポスト工業化社会の美術」を受けたものだと言えるだろう(*2)。同展は関根伸夫の《位相—大地》(1968)を出発点に、主に70年代から現在までのアートとメディアの関係を探求した。そこで必然的に浮かび上がったのは、写真と「もの派」の作家との微妙な関係である。もの派のほとんどの作品は写真(あるいは映像)に頼っていると言ってよいにもかかわらず、意外にも榎倉康二を除いて意図的につくられた写真作品がないのだ。言うまでもなく、「物質性」はほかならぬ「もの」と距離の近いテーマである。だが本展の出品作品における物質性は、「もの」との「出会い」やそこにおける「リアル」というより、写真という概念の「拡大」の証を示している。つまり、ここでの物質性は「写真」というひとつのオブジェクトの延長線上にあると言っていいだろう。

「New Photographic Objects 写真と映像の物質性」展より、迫鉄平 《氷》(2020)の展示風景 撮影=山中慎太郎

 迫鉄平は、その意味では代表的な作家と言える。彼の作品は、ほぼ固定観察の視点で撮られたユーモアが込められたヴィデオにも、多重レイヤーの版画にも、純粋な存在としての「写真」はいっさい出てこないが、「写真的性質」をも否定できない。また、迫の作品が壁に飾られるいっぽう、滝沢広と横田大輔の作品は壁の中に入ったり、壁から自由になってもいる。滝沢の《Criminal Garden》は、スキャンされた植物のイメージをキューブとした作品だが、ジオラマのように壁の中に設置されているため、ガラスごしにしか見えない、密閉されたインスタレーションである。滝沢が鑑賞者の触覚的欲望を拒否するのに対し、横田の《Untitled (Room/Reflection)》では部屋の中央に立つ、透明なフィルムのような素材でつくられた薄い壁が鑑賞者を招く。迫が版画とヴィデオ、横田と滝沢は彫刻的な要素、そして牧野貴が映画というメディアを使っていることをふまえるなら、Nerholは絵画である。絵具のようなテクスチャ、そしてなによりもぶれたイメージは、ゲルハルト・リヒターの影響を強く受けたものだろう。その作品が薄っぺらい「写真」から、より拡大されたオブジェクトまで変化のプロセスをたどってきたことは明らかだ。

「New Photographic Objects 写真と映像の物質性」展より、横田大輔 《Untitled (Room/Reflection)》(2020)の展示風景 撮影=山中慎太郎

 概念として、この展示が語る「ものの写真」から「写真的なオブジェクト」への変化が合理的なものであることは否定できない。しかし、なぜ本展の出品作家は男性のみなのか。これに言及するステートメントの不在は大きいものに感じられた。「全員男性」ということ自体は「言わなくていいこと」としてとらえられているのだ(*3)。

「New Photographic Objects 写真と映像の物質性」展より、Nerhol《Girls reading the newspaper》(2020)の展示風景 撮影=山中慎太郎

 この展示が巧みに示唆するように、写真における「物質性」はたんなる「ものとしての写真」に限られず、とらえ方が実に広い概念で、間違いなく有意義なテーマだ。しかし、広い概念だからこそ、日本に写真における物質性を取り上げる女性やノンバイナリーな作家がいないということはありえるのだろうか? 現状では、「物質性」というコンセプトが男性的なものであるともとられかねない。

 ジェンダーやセクシュアリティ(そして人種)という制度はあらゆる構造に浸透しているから、個々の作家たちが明らかにジェンダーについてふれなくても、展示という(ごく物質的な)構造をつくってしまえば、それは個人の意図から離れて、独自の文法を持ち始める。そう考えれば、無関心的な立場を取ろうとしても、それは無意識のレベルにしろ、ある種の関わり方と言ったほうが適切だろう。だから無意識であることによってむしろ、「当たり前」として受容してきた(「作家=男性」というような)概念を起動することになる。それは明らかに言語化されていることではないが、この「言語化されなさ」こそを指摘したい。「当たり前」ととらえたことが積み重なって、「言わなくていいこと」になってしまう。長島が指摘する、ジェンダーに関する問いが不在のまま、「物質的さ」を含む美術史にまつわるテーマを語ることができるだろうのか。この意識こそを、われわれ鑑賞者は美術館に求めるべきだろう。

*1──同書、3頁。
*2──タイトル英訳が「DECODE: Events & Materials」であることからも、明らかに「物質」がこの展示のひとつのテーマだとわかる。
*3──私の考えでは、歴史的に「作家」(あるいは「写真家」)像自体が「 男性」に還元されやすい。さらに言えば異性愛や、日本の場合では「大和民族」の神話的アイデンティティも自明のものに含まれているだろう。