あちらこちらをまたぎ続けた人、式場
八面六臂の働きとは、まさに精神科医、式場隆三郎(1898-1965)にふさわしい言葉である。彼がなしとげた仕事の量(医業を本業としつつ、生涯で約200冊の著書を刊行)と、活動範囲の多彩さ(精神医療はもとより、文学、芸術、民藝、そして興行まで)には目を見張るものがある。
その、あまりに広範囲にわたる活動を、本展「脳室反射鏡」では3つのパートにわけて紹介している。
最初のパート「芸術と医学」は、医学生、式場隆三郎が、白樺派の文芸に心惹かれ、民藝運動にも参加した様子が資料を通じてたどられる。学生時代に既に岸田劉生や柳宗悦と交流していた事実に驚かされるが、じつは彼らは年齢がさほど離れていない。彼らとの親交は、式場個人の類まれなヴァイタリティに加え、1910年代から20年代の自由でダイナミックな文化的風潮のたまものだろう。
続く「芸術と宿命」というパートでは、疾患や障害を持つ人々の創作物を彼が「宿命」という言葉とともに評価したことが紹介される。「宿命」的に表現行為や創作活動に打ち込む人々に対する式場の関心は、永井隆や草間彌生に対する支援にも表れている。また、式場は、「宿命」に導かれた芸術家、フィンセント・ファン・ゴッホの複製絵画展の開催や、通称「日本のゴッホ」である山下清のプロモーション活動を通じ、こうした芸術観を一般まで普及させた。
最後のパート「芸術と生活」は、一風変わった個人住宅「二笑亭」(*1)の研究と、青年時代から協働してきた民藝運動について、中心的に扱う内容となっている。『二笑亭綺譚』(1939年初版)のために描かれた木村荘八の挿絵原画は、一度、行方不明になった後に再発見されたものだ。「二笑亭」の部分的な再現含め、見ていて楽しいものが多い。
さて、これらパートごとの展示内容は、無論、厳密に区分されるものではない。式場自身が、ジャンルごとの境界線をやすやすと横断して活動したため、それは当然であろう。例えば式場は、民藝運動と、精神病理に基づくゴッホ研究という、一見すると相異なる方向に情熱を注いだ末、ゴッホの絵画をもとにした工芸品「ゴッホ工芸」を産み出している。「広く雅俗をまたいだ式場の活動」とは本展において式場を総括する言葉だが、雅俗のみならず、彼はあらゆるカテゴリーをまたぎ続けてきたのだ。
その彼が意識的にまたごうとしたのが、従来の美的規範と、「それ以外」を隔ててきた境界線だろう。著書『宿命の芸術』(1943)の巻頭には「偉大な芸術活動から病的という言葉を抹殺するために、私はこの本をまとめた」と書かれている。この言葉からは、「病的」と呼ばれ、好奇と偏見の眼差しに晒されてきた表現を、適切に評価したいという彼の志が感じ取れる。実際、式場は自身の患者の創作物をはじめ、専門的に美術を学んでいない人々の作品を収集し、積極的に評価してきた。近年、日本でも「アウトサイダーアート」「アールブリュット」が注目されているが、式場はいまに続くこの潮流に先鞭をつけたわけである。
加えて、式場は表現物を純粋に美的な対象として評価するだけではなく、表現者の抱えているだろう疾患について観察する姿勢も保ち続けている。新たな表現行為に対する美的解釈と、診断、治療といった医学的な眼差しがパラレルに駆動している点は注目に値する。
さらに、その式場が、結果的にまたぐことになったもう一つの境界線、それは「オリジナル」と「複製」の差異ではないだろうか。彼が手掛けたゴッホの展覧会が、あくまで複製絵画展であったことを無視してはいけない。もちろん、ゴッホの実作品を日本に運ぶ困難ゆえ、仕方がなかったのだろう。しかし、本展を眺めていると、じつは式場にとって絵画が本物(オリジナル)か複製かはそれほど重要ではなかったのではないか、そのような気もしてくるのだ。
例えば、本展では、ゴッホを主題とした舞台のポスターや、式場が手掛けたゴッホ関連グッズが数多く展示されている。これらを通じて「炎の人」ゴッホという物語が醸成され、さらにそれらを手にした人々のなかで物語は増幅される。その磁場のなかで、オリジナルの絵画作品から切り離されたイメージも、何にも替えがたい「イコン」になりえたのではないだろうか。そして、繰り返されるゴッホのイメージと物語は、日本の各所で聖性を増し、人々の心を掴んでいったのではないだろうか。
もちろん、オリジナルと複製の区別を曖昧にし、物語を通じて複製を別の次元へと引き上げる行為は、ある種のいかがわしさを伴う。ただ、そうした語りが強く求められていたこと、そして、そこにある種の式場の創造性が発揮されていたことは付け加えておいても良いだろう。
異なる領域間を横断し、既成概念の境界線をまたぎ続けてきた式場隆三郎。社会福祉や表現行為に対する考え方が大きく変わった現在、式場の活動すべてをそのまま肯定的に語れるわけではない(*2)。境界線をまたぐことで、その境界線を明示し、強化してしまうこともあったかと想像される。
けれども式場は、社会の周縁部に置かれてきた表現に一人の鑑賞者として惹きつけられると同時に、医者として疾患に対処し、事業家として様々な表現を実際的に支援してきた。また、規範外の新奇な表現をむやみに称揚することで、かえってそれらを未知なる他者の領域へと押し込めるような素振りは、本展を見る限りではあまり感じ取れない。反対にそれら境界線の向こう側におかれてきたものを自分と地続きのものとしてとらえ、自らも社会も変化することを恐れなかったのではないか。そのような式場の姿勢に学ぶところは、いまなお大きいと言える。
*1──東京深川に建てられた個人宅。家主が独学で設計しており、通常の住宅とは大きく異なる構造、意匠が特徴。式場はこの建築様式について調べるとともに、家主の患った病についても解釈している。
*2──例えば、メディアと連動した山下清のプロモーション活動は、作品以上に山下のキャラクターを焦点化しており、反省的な検証も必要だろう。