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REVIEW - 2019.10.29

計算された「子どもっぽさ」とポストモダンの円環。仲山ひふみ 評 「ガブリエル・オロスコ」展

幾何学的表現を用いた絵画作品などで世界的に知られるメキシコ出身のアーティスト、ガブリエル・オロスコ。ラットホールギャラリー(東京)にて開催された、国内では4年ぶりとなる個展について、若手批評家の仲山ひふみが論じる。

仲山ひふみ=文

ラットホールギャラリー(東京)での「ガブリエル・オロスコ」展の展示風景 Courtesy of the artist; kurimanzutto, Mexico City / New York; Rat Hole Gallery, Tokyo

ポストモダンの終わらなさ、あるいはそれ以上単純にはならない円環を分解することの難しさについて

 ガブリエル・オロスコの名を聞いて私たちがまず思い浮かべるのは、円形と直線からなる幾何学的パターンの反復、日常的事物への(主に写真のイメージ上での)遊戯的介入、そこから生じる軽やかな無意味性、恣意性、匿名性といった彼の作品に特徴的ないくつかの戦略的要素だろう。オロスコの作品には驚きと親しみやすさの性格が同居している。それゆえ観客は彼の作品からしばしば、自身が幼少期に眺めた世界の新鮮さのイメージを喚起されもする。だがそのような全体としての「子どもっぽさ」(「無垢なる生成」と言い換えてもよい)の印象は、オロスコの作品に内在するある「戦争ゲーム」的な構造と相反するどころか、むしろ本質的な部分において一致してしまうことが考えられる。

ガブリエル・オロスコ 無題 2018-19 200×200cm Courtesy of the artist; Kurimanzutto, Mexico City / New York; Rat Hole Gallery, Tokyo

 例えばイヴ=アラン・ボワは、オロスコが公言するチェスへの関心を手がかりに、彼の作品にモダニズム絵画の視覚的垂直性とは異なる、遊戯的水平性の優位を見てとろうとする(*1)。イーゼルの上に垂直に立てかけられ、遠近法的にであろうとなかろうとただ視線のみが入り込んでゆけるキャンバスと、テーブルの上に水平に置かれ、その上で駒たちの「操作」が実際になされるチェス盤との対比である。ボワの解釈は、レオ・スタインバーグがかつてラウシェンバーグのコンバイン絵画の反モダニズム的特質を表すために「フラットベッド」という概念を案出したのと似たようなラインに沿ってなされており、ポストモダンな(ゲーム的)平面論の同時代の作家への適用の例としてはきわめて標準的なものである。

 モダニズムへの批判的応答という点は度外視したとしても、オロスコをポストモダンの作家として理解することには、たしかにひとつの利点がある。例えば《Samurai Tree》シリーズにおけるチェスの駒のナイトの動きにもとづき生成された幾何学的パターン、円形と直線のバロックで無際限な組み合わせには、かつてフレドリック・ジェイムソンがその苛烈なポストモダン論において取り上げた、冷戦終結後のグローバル化した金融資本と多国籍企業による土地への抽象的かつ匿名的な投機の動き、そしてそれが引き起こした日常的生活空間の具体的かつ本質的な変容のしるしとしてのポストモダン建築の意匠にきわめて近い要素が見出される。そうした類似性の知覚は、ポストモダンという言葉を使わなければたやすくとり逃されてしまうものだ。

ラットホールギャラリー(東京)での「ガブリエル・オロスコ」展の展示風景 Courtesy of the artist; kurimanzutto, Mexico City / New York; Rat Hole Gallery, Tokyo

 遊戯的なものと戦争的なものとの結びつきは、ポストモダンと呼ばれる時代あるいはそれ以降の(?)時代としての「ノンモダン」(ラトゥール)に特徴的だと言うことができる。パメラ・M・リーは、ポストモダニズムをテーマに据えたその著書のなかで「関係性の美学」と「戦争ゲーム」によって代表される冷戦期の想像力との親和性を指摘している(*2)。オロスコの作品がまとう子どもっぽい幾何学性が、ポストモダンの残酷な情報論的「アーキテクチャ」の論理と奇妙に似通って見えてくるのは偶然ではない。ジェイムソンは「後期資本主義の文化的論理」というラベルのもとで、この論理における無垢と冷酷の結合をすでに見抜いていた。

 他方で、オロスコが現実の複雑な風景に対して行う意図して子どもっぽい単純化の操作、もしくは作家自身の言葉を借りるなら「ダイアグラム」化の操作といったものに、現在のアートワールドにおいて支配的な「社会的転回」(クレア・ビショップ)への批評的デタッチメントの姿勢を読みとるといったことも、まったく不可能なわけではない。実際、評論家の大森俊克はその著書のなかで、オロスコの芸術実践を初期から特徴づけているその特徴のなさ、匿名的なあり方を、作家の民族的・地理的アイデンティティをめぐる問いを絶えず脱臼させてしまう、逆説的場所性の戦略としての「メキシコ的なもの」の名において分析しようと試みている(*3)。私たちの言葉に置き換えれば、アートワールドの論理もまた、おそらくはこの「メキシコ的なもの」を通じて抵抗しなければならない、ポストモダンの「文化的論理」の一例なのである。

ラットホールギャラリー(東京)での「ガブリエル・オロスコ」展の展示風景 Courtesy of the artist; kurimanzutto, Mexico City / New York; Rat Hole Gallery, Tokyo

 今回、ラットホールギャラリーにて開かれたオロスコの個展においても、メキシコの建築物に用いられる火山岩を素材とした立体作品もあれば、日本の琳派の屏風絵を(ひょっとするとわざと拙劣に)ミメーシスしたような作品もあり、はたまた絵画のほうでは原始美術に対する20世紀的関心への共感を示してみせるなど、「メキシコ的なもの」の戦略はかなりはっきりと機能しているように見えた。アートワールドの論理をはぐらかすこと、要するに意図された意図の見えなさ、計算された雑さの戦略なのである。いや、戦略という言葉はすでにふさわしくないかもしれない。たしかにオロスコはその円形を、あたかもチェスの一手のように熟慮して配置する。しかしルールの恣意性は、ゲームへの熱狂あるいは「没入」(マイケル・フリード)のなかで、いつしか純粋な必然性に転じることになる。オロスコがそのような幸福な熱狂にまだ包まれてしまってはいないと、はたして誰が断言できるのか。

ラットホールギャラリー(東京)での「ガブリエル・オロスコ」展の展示風景 Courtesy of the artist; kurimanzutto, Mexico City / New York; Rat Hole Gallery, Tokyo

 都市あるいは日常空間の背後に潜む、ファイナンシャルでスペキュレイティヴな、ブラックボックス化した抽象的情報領域の存在をたえず暗示せずにはいられない、ポストモダンな死の欲動に駆り立てられた作家としてガブリエル・オロスコをあえて捉えてみること──それは彼の用いる円環運動のモチーフに、彼自身がそれについてしばしば語る宇宙的永遠性とは異なる、終わりなき日常の悪夢的循環という解釈を新たに付与する可能性を開くだろう。オロスコは世界の「現実」から目を背けてなどいない。ポストモダンの脱出不可能な円環は、オロスコにとってそれ以上分解することができないほど単純な、きわめて単純な「現実」なのだ。だから、彼はそれを反復するしかないのである。

*1──Yve-Alain Bois “The Tree and the Knight,” in Gabriel Orozco, MIT Press, 2006, pp.181-99.
*2──Cf. Pamela M. Lee, New Games: Postmodernism after Contemporary Art, Routledge, 2013, pp. 99-102
*3──大森俊克『コンテンポラリー・ファインアート:同時代としての美術』、美術出版社、2014、103-133頁。