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2019.7.31

言語とイメージを問う、ヴィデオ・アート草創期の実践。長谷川新評 ケティ・ラ・ロッカ「Appendice per una supplica」展

1960〜70年代のイタリアで活動した女性アーティスト、ケティ・ラ・ロッカ。ヴェネチア・ビエンナーレ開催中のイタリアでは、トリノにて近年国際的に再評価される彼女の個展が開催された。ヴェネチア・ビエンナーレで発表された代表作を中心とした本展を、インディペンデント・キュレーターの長谷川新がレビューする。

文=長谷川新

ケティ・ラ・ロッカ Appendice per una supplica 1972
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「お客様の地域ではこの作品を視聴できません」

「これは一体なにかね。奇をてらった新手の芸術か」 潤堂は開いたページを突きつけた。 印刷された文字が増殖し、行からあふれて重なり合い、互いに食い合って肥え太り、ページを真っ黒にしていた。文字は紙をつらぬいて別のページと融合し互いを呑み込みあっている。その病巣がついには表紙にまで達し瘤となっているのだ。 飛浩隆『自生の夢』(河出書房新社、2016)pp.154-155

 イタリア半島の根本に広がる3都市トリノ、ミラノ、ジェノヴァを結ぶと、ちょうど綺麗な三角形ができる。この地域は大工業地帯であり、戦後「イタリアの奇跡」と呼ばれる経済復興の原動力となった。こうした社会的、経済的、地理的背景と、イタリアの戦後美術は不可分である──というわけで、イタリアでもっとも歴史のある近現代美術館は、世界的な自動車メーカーのフィアットが鎮座するトリノにあるわけだ。美術館の地下展示室では、最近収蔵されたケティ・ラ・ロッカ(1938-76)の映像作品が展示されている。

展示風景より 撮影=長谷川新

 池野絢子はイタリアの戦後美術史を概観したテクストを「現代にあって、イタリア美術は、より国際的な地平のもとで、ヴィデオ・アートやパフォーマンス、インスタレーションなど、多岐に展開していくことになる」と結んでいる(*1)。そのゼロ地点──イタリアにおけるヴィデオ・アートのもっとも早い実践のひとつが、ラ・ロッカによる《Appendice per una supplica》(1972)である。当時映像部門ができたばかりのヴェネチア・ビエンナーレで、ジェリー・シューム(1938-73)(*2)のキュレーションのもと発表されたその作品は、黒い背景に複数(人)の手だけが映し出されたシンプルなもので、それらの手が絡み合ったり距離をとりあったりすることで、触覚性や空間化した距離の弾力を強く喚起していた。日本語に訳せば「嘆願書付録」とでもなるそのタイトルとは相反するかのように、手は何かを嘆願する様子も、あるいは嘆願を補助する様子もない。言い換えれば手はなんらかの意味を、メッセージを、言語を負っていないように見える。どちらかといえばリチャード・セラ(1938-)が鉛をつかもうとする様子をとらえた映像作品(《Hand Catching Lead》[1968])に近い。しかしそこには、あのクセになるオン/オフの律動の周期はない。あるいはイタリア、アート、手、というところからブルーノ・ムナーリ(1907-98)による《Speak Italian》(1958)を連想するかもしれない。この類似はすでにキュレーターによって先回りされており、そのジェスチャーがムナーリのそれよりも非言語的であることが壁に貼られたステートメントで強調されている。ラ・ロッカの射程には、当時の社会状況下において「手」の描写がジェンダー的区分や工業的側面との緊張関係に抵触することも入っていただろう。

 イタリアの戦後美術、というとスパツィアリスモ(1940年代末〜50年代)、アルテ・ポーヴェラ(1967〜70年代前半)、そしてトランス・アヴァンガルディア(1970年代末〜80年代)の3つが思い起こされる。これらの動向──言及されるアーティストはほぼ男性である──からは徹底して抜け落ちてしまう、しかし極めて重要な実践者としてラ・ロッカは屹立している(*3)。

展示風景より 撮影=長谷川新

 展覧会にはこの映像作品のほかに、平面作品も展示されていた。上下に並べられひとつの額へと収められたイメージは、なんらかのジェスチャーをしている両手の写真と、その輪郭が判読不可能なアルファベットで置き換えられたドローイングである。これと似た作品は美術館の常設スペースにも展示されていて気になっていたこともあり、強く筆者の目を引いた。のちに知ることとなるのだが、ラ・ロッカは様々な写真(「クリシェ」となったイメージから、病に侵された彼女自身の頭部のX線写真まで)の輪郭を、意味を持たない言葉の羅列でなぞっていく作品を数多く制作していた。コンセプチュアル・アートと呼ばれる諸実践には、イメージと文字を注意深く分離し、負荷をかけることで、そこで生成されている意味を問い直す技術が数多く存在している(*4)が、ラ・ロッカのそれはとりわけ独自の達成に思われた。それはまさにある種の言語不審であり、権威的な批評行為やジェンダーの不均衡への異議申し立てであった。

 行われている作業としては、対象の輪郭を文字で加筆していくことなわけであるが、実際彼女の作品内で喚起されるイメージは、汚染であり、増殖であり、しかしそれこそが現実を正確に描写している ソースコード ・・・・・・かもしれない、という凄みのある凝視だ。言うなれば映画『ゼイリブ』(1988)の、あのメガネをかけた状態である。あるいはこうも考えうる。ラ・ロッカの判読不可能な文字列の中で特権的な地位を与えられている「I」や「You」という「多くの人々が読める」「英単語」は、そこに人称をめぐるダイナミクスを看取する以上に、言語と国家をめぐるポリティクスを前景化させる(実際、イタリアの戦後美術には絶えずアメリカとの複雑なつばぜり合いが顔をのぞかせている)。ベルギーの哲学者ヴァン・パレースらは、英語を学習するコストの圧倒的な非対称性を是正すべく、英語を世界共通語として徹底するかわりに、英語圏の国々から「言語税」を徴収することさえ提案している。誰もが心待ちにしている完全なる自動翻訳の実現も、「機械翻訳のしくみをみていくと、舞台裏ではしっかりと英語が中心的な役割とはたしているのではないか」(*5)と注意が差し向けられている。

常設展示風景より 撮影=長谷川新

 ラ・ロッカ自身の意図を精査すれば、言語そのものを否定するのではなく、そのより良いあり方を模索しようとするポジティブな思考が前提となっていることは疑いえない(*6)。だとしても、アスキーアートの前身であるかのような彼女の不穏なイメージたちは、文字を書くという営みも、イメージをそのまま受け取ることも、同時に問いただすのだ。

*1──池野絢子「越境する戦後美術」『教養のイタリア近現代史』土肥秀行/山手昌樹・編著、ミネルヴァ書房、2017、p.277
*2──テレビ番組としての展覧会を制作・放映したことなどで知られる。
*3──そこには、例えばバス・ヤン・アデル(1942-75行方不明)やクリストファー・ダルカンジェロ(1955-79)といった早逝の作家を忘却から救う営みも合流しているだろう。
*4──ヤロスワフ・コズロウスキー(1945-)が《REALITY》(1972)という作品で、カントやヴィトゲンシュタインといった哲学者たちのテクストから文字を消し去り、句読点だけを残したように。
*5──瀧田寧・西島佑編著『機械翻訳と未来社会 言語の壁はなくなるのか』(社会評論社、2019)収録の座談会における西島佑の発言(p.21)。
*6──なお、ラ・ロッカは小学校の教師経験もあり、電子音楽も学んでおり、文字通り「新たなアルファベット」というタイトルのテレビ番組の制作に関わってもいる。